・歴史の上書き更新
・大衆消費社会の実像
現代日本の大多数の人々の音楽生活が、パッケージされた音楽商品としてのレコード歌謡の消費を中心に営まれていることはいうまでもありません。レコードとは音楽を録音したものであり、またレコードに録音されたものこそを音楽とみなす感覚は、少なくとも現在のわれわれにとって常識に近いものでしょう。それゆえに「レコードを前提としない音楽」を具体的に想像することは困難でさえあるのですが、ともあれ、そのような「音楽」と「レコード」が不可分に結びついた大衆的な娯楽商品としての「レコード歌謡」の誕生をもって、歴史的な画期とすることに異論はないでしょう。
【『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介〈わじま・ゆうすけ〉(光文社新書、2010年)】
何気ない指摘だが大衆消費社会の実像を捉えてあますところがない。クリシュナムルティが学生に「本物の音楽」を聴かせる場面を読んだことがある。それは商業性から離れた音楽だった。
私が「これか!」と感じたのはDifang(ディファン/郭英男)やブヌン族の歌を聞いた時であった(Difang(ディファン/郭英男)の衝撃/『Mudanin Kata/ムダニン・カタ』デヴィッド・ダーリング、ブヌン族)。
ディープ・フォレストやイヴァン・クパーラなど民謡を採り入れたムーブメントも土着のリズムへ回帰する現象であったように思われる。
現代において歌は「聴くもの」となった。「歌う」主体性はカラオケで維持されているように見えるが、対価と伴奏を必要とする弱さがある。喜怒哀楽を共有する「歌の力」はどこにも見当たらない。
宗教が音楽を重要視するのも、感情の共鳴・増幅に目的があるのだろう。戦争や革命にも歌はつきものだった。
音楽が完全に商品化されると、「いい音楽」とは「売れる音楽」になる。音楽性の一定水準を満たしていれば、あとはメディアでの再生回数が売れ行きを左右する。その意味では路上からスタートしたゆずや、メジャーデビューをする前に紅白歌合戦出場をしたDef Techは、音楽そのものが持つ可能性を世間に知らしめたといってよい。
また私にとっては「海行かば」も商業性とは無縁の音楽として心に刻まれた。『万葉集』を読んでいない私が、万葉の調べに打ち震えるのだから、歴史や伝統はやはり血の中に流れ通うのだろう。
・音楽を聴く行為は逃避である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ