古本屋の殴り書き

書評と雑文

音楽を聴く行為は逃避である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

クリシュナムルティ著作リスト
必読書 その五

 ラジオ音楽が驚嘆すべき逃避であることは、明らかである。隣家では、家人たちが、一日中それをかけ続け、そしてさらに夜間にまで及んだ。父親は、かなり早い自国に彼の事務所に出かけた。母親と娘は、家の中、または庭で働いていた。そして二人が庭で働いていたときには、ラジオはより高々と鳴り響いた。様子からして、息子もまた音楽とコマーシャルを楽しんでいるようだった。(「ラジオと音楽」)

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一〈おおの・じゅんいち〉訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)以下同】

大衆消費社会の実像/『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介

 商業音楽と考えてよい。もちろんクリシュナムルティは音楽そのものを完全に否定しているわけではない。それではイスラム教になってしまう。「売り物」となった音楽の罠を警戒するよう促しているのだ。

 われわれは、世界のニュースをより迅速に得、そして殺人事件がごく生々しく解説されるのを聞くことはできるかもしれない。しかし情報は、われわれを聡明にしてはいない。原子爆弾投下の惨事、国際的諸同盟、クロロフィルの研究等々に関する情報の薄い層は、われわれの生に何ら根本的な相違を生んではいないようである。われわれは相も変わらず戦争のことに熱心であり、われわれはどこか他の人々の集団を憎悪し、われわれはこの政治的指導者を軽蔑して、あの指導者を支持し、われわれは組織宗教にだまされ、われわれは国家主義的であり、そしてわれわれの不幸は続いていく。

 世界といっても、それは拡張された世間である。自分の興味や感心が及ぶ範囲に限られている。膨大な情報の裏側には必ず「知られざる世界」が存在する。

 ガリレオからニュートンに至る17世紀の科学革命は、キリスト教の世界観を引っくり返し、技術革新の推進力となったが、決して人類を聡明にすることはなかった。二度の大戦はその証拠といってよい。

 インターネットによる情報革命も憎悪の煽動と広告課金にまみれていて、むしろ人類の業(ごう)を強化する方向に誘導されている。

 それどころか、あらゆる消費行動がオンラインデータとして集積される現在、我々は「情報的存在」へと変わり果てた感さえある(『アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る』藤井保文、尾原和啓)。

 われわれをして音楽に固執させ、美を所有させるのは、感覚への願望である。外面的な線や形状への依存は、われわれが音楽、芸術、意識的な沈黙といったもので満たそうとする、われわれ自身の存在の空しさを示しているにすぎない。

 私が音楽に傾斜するのは刺戟に乏しい生活にふりかけるスパイスだと言うのだ。確かに音楽を視聴する時、私の心はオーディオレベルインジケータように振れる。twitterで「今週の一曲」を発信しているのも音楽を愛するゆえである。

「感覚への願望」とは刺戟に他ならない。「意識的な沈黙」とは瞑想一般のことだろう。つまりクリシュナムルティは宗教的行為すら「刺戟への欲求」から生じている可能性を示唆しているのだ。経典の詠唱、繰り返されるマントラ真言)、唱和する祈りの声さえも。

 絵画展へ足を運び、気に入った作品を見つけた時、真っ先に私の心に浮かぶのは「価格」である。複製でも構わない。何なら絵葉書でも。「所有」を目論んだ瞬間に、絵画と私の交流は断たれる。所有の対象となった途端に、「感動」は「日常の刺戟」に格下げされる。

 内なる美があまりにも乏しいために、私は外部の美を求めるのだろう。それゆえスピーカーから流れる音楽に身を委ねて、鳥の鳴き声を聴きそびれてしまうのだ。