古本屋の殴り書き

書評と雑文

情報は有限である/『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ

『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
・『すごい物理学入門』カルロ・ロヴェッリ

 ・情報は有限である

必読書リスト その三

 ここで、ひとつ想像してみてほしい。あなたは、ある物理学的現象の計測を行い、その現象がどのような状態にあるか突きとめようとしている。たとえば、振り子の振り幅を計測して、5センチと6センチのあいだであることが分かったとしよう(物理学ではどんな計測も、完璧に正確であるということはありえない)。量子力学が確立される以前は、5センチと6センチのあいだに、振り幅が取りうる値は無限に存在していた(たとえば、5.1センチであったり、5.101センチであったり、5.101001センチであったり……)。したがって、振り子の動きには「無限」の可能性が存在することになる。振り子に関するわたしたちの無知もまた、文字通り「無限」の状態にあるわけである。
 一方で、量子力学はわたしたちにこう教えている。5センチと6センチのあいだで、振り幅が取りうる値の数は「有限」である。だから、振り子についてわたしたちが所持していない情報の量もまた、「有限」であるといえる。
 この議論はあらゆる文脈に利用できる。つまり、量子力学の第一の重要な意義は、ある現象のうちに存在する「情報」の総量に限界を設けたことにある。ここでいう「情報」とは、「ある現象のなかで生じうる、たがいに区別可能な状態」を指している。自然の奥底に潜む粒性が、「無限」にたいして「限界」を設定する。デモクリトスの洞察したこの粒性こそ、量子論を支える第一の側面である。このような粒性があらわになる極小のスケールは、プランク定数hによって規定されている。

【『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ:竹内薫〈たけうち・かおる〉監訳、栗原俊秀〈くりはら・としひで〉訳(河出書房新社、2017年河出文庫、2019年/原書、2014年)】

 原題は『現実は目に映る姿とは異なる 量子重力への旅』。カルロ・ロヴェッリはイタリアの理論物理学者でループ量子重力理論を開拓した人物。流麗な筆致が詩の領域にまで迫っており度肝を抜かれた。まだ読書中。200ページほどまで読んだ。

 私はかつて「永遠は存在しない。だが無限は存在する。0と1の間に」と何度か書いてきた。それが誤りであることを知った。プランク定数を知りながらも気づかなかったのは、やはり理解が及んでいなかったのだ。「情報は有限である。ゆえに無限は存在しない」と訂正しておく。

 量子論の父は3人いる。アルベルト・アインシュタインマックス・プランクヴェルナー・ハイゼンベルクである。そしてニールス・ボーアが続く。

 アドルフ・ヒトラーが台頭しユダヤ人が迫害されると、アインシュタインアメリカへ渡り、マックス・プランクはドイツに残った。プランクナチス政権下で煮え湯を飲まされながらも、研究を怠ることがなかった。次男はヒトラー暗殺計画に加担した容疑で処刑された。

 平和な時代に繰り広げられる戦時への非難・中傷は実にたやすいことだ。ひょっとするとそれは美食に舌鼓を打ちながら、あるいは紅茶を啜(すす)りながら行われているかもしれない。

 量子は波と粒の性質を併せ持ちながら、離散的なエネルギーを有している。電子という粒子は現われては消え、消えては現れる存在なのだ。

 基本プラン区単位は物理世界の最小単位を示したものである。つまり、「一個の水分子よりも小さな水滴は存在しない」(本書)。ここにおいて「無限の分割」は不可能なのだ。この世界は滑らかな直線上にあるわけではなく、ぶつぶつの切り取り線上を時間の矢に沿って進んでいる。

「情報は有限」である。何と重い言葉か。私は少しも残念だとは思わない。むしろそうした有限性こそが現在の生を輝かせるのだと思う。

 逆に永遠や無限を設定すると、現在の私と同じ人生がそこかしこに存在してしまうことになる。それが現実的でないことは直観的に理解できよう。

 尚、科学本で「センチ」はないだろう。センチメートルかcmと表記するべきだ。また「振り幅」よりも「振れ幅」が一般的だと思う(「振り幅」「振れ幅」の意味と違い - 社会人の教科書「れ」が「り」よりふさわしい 感情の「振○幅」 | 毎日ことば)。