・反省を強制してはならない
・『いい子に育てると犯罪者になります』岡本茂樹
悪いことをして、何度も反省させられて、最後に犯罪を起こしてしまう者の「代表者」が、刑務所に収容されている受刑者です。受刑者は、幼いときから周囲の者に何度も叱られ、反省を繰り返しています。それでも、また悪いことをするのです。それがエスカレートした結果が犯罪です。問題行動を起こしたとき「すみませんでした」「二度とやりません」などと涙を流して固く誓っておきながら、同じ過ちを繰り返し、最後に犯罪を起こすのです。
【『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹〈おかもと・しげき〉(新潮新書、2013年)以下同】
つまり、子供のうちから反省ばかりさせていると、反省上手な表現力を身に着けてしまう。「反省する言葉」はスラスラと出てくるが、本気で反省する機会を失う。
小学生の頃、幼馴染みのマサ子の家に生えていたでかいクルミの木に皆でよじのぼり、ポケット一杯のクルミを獲ったことがあった。玄関の方から「コラアーーーッ!」という怒鳴り声が響き渡り、我々窃盗団は一列に並ばされ、散々説教を食らった。我々は一様に俯(うつむ)いてしおらしい態度を装った。そう。「装った」だけなのだ。解放された途端、「あの、くそジジイめ!」と皆で悪態をついた。マサ子からは中学3年になっても、「そう言えば小野君は、クルミを獲って、うちのおじいちゃんに怒られてたよねー」と笑われた。
本来、「自分を省みる」のは自発的な行為である。それを強制的な外圧で無理矢理【行わせる】時、反省は単なる社会的ディスプレイ行動となるのだ。いやはや全く新しい視点である。
和子が有名大学に入学し、無事卒業し、仮に普通に結婚したとします。やがて和子にも子どもが産まれるでしょう。果たして和子はどのような子育てをするでしょうか。
先に私が書いたことを思い出してください。「人は、自分が人にされたことを、人にして返す」という言葉です。和子は、自分が親から受けた教育を自分の子どもにもするでしょう。なぜなら、それ以外の方法を知らないからです。自分の子どもが勉強しているかどうか不安になって、何度も部屋をのぞきこむでしょう。机に向かわない子どもに対して、手を上げるかもしれません。なぜなら、和子自身が父親から暴力を振るわれていたからです。和子の子どもが弱音を吐いたり、「学校に行きたくない」などと苦しみを訴えたりしたとしたら、「あなたが甘いから、そうなるのだ。しっかりしなさい」と厳しいしつけをするでしょう。そんな環境に育った子どもは、自分の否定的な感情を抑圧することになるので、和子と同じように万引きといった問題行動を起こすかもしれません。すると、和子は自分が親からされたことを間違いなく子どもに押し付けるでしょう。和子はわが身のこれまでの教育の甘さを「反省」し、さらに子どもを厳しくしつけていくことになります。(中略)
言いたいことは、和子自身が犯罪者にならなくとも、和子の子どもが犯罪者になるリスクがあるということです。
「手を上げる」は「挙げる」と思いきや、暴力を振るう場合は「上」を使うようだ(Weblio辞書)。
岡本は中々威勢がよくて、学者の論文をコテンパンにこき下ろしている。ただし、このテキストは誤っている。「なぜなら、それ以外の方法を知らないからです」――そんなことはない。断じてない。他の家から学ぶこともできるし、ドラマや小説からだって教わることはある。経験(臨床)に引きずられ過ぎて牽強付会な論法となっている。
そもそも、親から受けた悪しき教育がそのまま受け継がれているとすれば、人類はとっくに滅んでいてもおかしくないだろう。例えば5人兄弟がいたとしよう。彼らは全員が同じ教育の仕方をするのだろうか? それは考えにくい。やはり5通りの教育方法になるのが自然である。
心理的な抑圧はどの時代にもあることだろう。それをどう解消するかが問題なのだ。つまり現代日本の病巣は、親子関係で形成された抑圧感情を吐き出す場所がないことに由来している。