・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
・『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫
・近衛文麿の周囲には有力な軍人がいなかった
・『爽やかなる熱情 電力王・松永安左エ門の生涯』水木楊
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで』大谷敬二郎
・『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
近衛の信頼していた宇垣一成についていえば、彼の政治手腕を近衛は高く評価しており、事実、宇垣もそれだけの実力をもってはいたが、すでに彼は非常時以前の人物で、いわゆる三月事件の傷あともあり、陸軍からは、ことごとにそっぽを向かれていた。昭和12年の宇垣内閣流産、昭和13年頃の宇垣外相に対する反発など、すべて反宇垣の根づよい作用である。
石原莞爾、彼はたしかに軍の偉才であり、一派を率いてはいたが、昭和16年3月、東条によって追放された退役中将であり、いわゆる「東亜連盟」運動の中心ではあったが、軍におよぼす影響といったものは、皆無に近く、いたずらに当時の軍を罵詈讒謗(ばりざんぼう)していたにすぎなかった。
また、酒井鎬次は近衛側近の一人として、近衛にはたいへん信用があり、その頭脳を高く買われ、近衛の顧問のような地位にあったが、これも昭和15年待命となった退役中将であった。戦争中召集されて参謀本部にあったが、召集軍人であったから、中央部を代表するものではなく、戦史を研究する一個の学究的存在でしかなかった。
さて、このように見てくると、近衛に近い軍人といえば、そろいもそろって退役軍人で、しかも、それらは、大小の差はあったが、当時の軍部に対しては、不平と反感をもっていた人々であったことが注目される。いいかえれば、近衛は、現中央部に何がしかの不平と反感をもつ、いわゆる反主流の退役軍人によってとりかこまれていたということになる。近衛の対軍態度の素地は、こうした人々によってつちかわれ、また、これらの人々のもつ雰囲気の中で生まれたと見ることができるであろう。
近衛は口をきわめて軍人の政治関与を非難したし、その軍の政治進出に憤っていた。しかし、彼の側近にいた軍人の多くは、政治関与のきけ者だった。たとえば、荒木大将のごときは、陸軍大臣当時、荒木総理大臣のニックネームをもらうほど、内政、外交などに非常時国策なるものを提唱し、軍部大臣の域を越えることはなだしいものがあったし、鈴木貞一は、若いときから、政治将校として終始した人で、その政治干与ないし政治陰謀は数かぎりない。石原莞爾もそれが国防担当者としての立場からではあったが、林内閣づくりの楽屋うらにあったり、板垣かつぎ出しに暗躍するなどの所業があった。
このような政治的前科ものを擁していた近衛が、軍人の政治干与ないし軍部の政治進出を、きびしく非難していたことは、不思議なことである。【『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎〈おおたに・けいじろう〉( 図書出版社、1971年/光人社NF文庫、2014年)】
大谷敬二郎は元憲兵大佐である。調書の如き簡潔な文体が心地好い。怜悧な知性を感じさせる文章で日本人には珍しく客観性に富んでいるのが特徴である。
日本の近代史を学べば学ぶほどわからなくなるのが二・二六事件と近衛文麿の存在である。多分ここに日本社会が抱える矛盾が象徴的に現れているのだろう。
早瀬利之著『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』を鵜呑みにすることができなかった私だが、大谷の指摘を読んで得心がいった。往々にして礼賛には人の眼を曇らせる働きがある。
まだ読んでいる最中なのだが、「近衛文麿は赤の幻に翻弄された」という主張であり、その原因を軍関係の人脈の弱さに求めている。
天皇陛下と国民の期待を担った英雄が、ほんのわずかな綻(ほころ)びから時局の判断を誤ったというのだ。国内左右の人材を登用し、様々な情報に通じ、高い識見の持ち主であっても時代の波に飲まれてしまうのだ。
政治家に過剰な期待をすることは誤っているのだろう。そして政治に何かを望んだ瞬間から国民は無責任になってしまうのだ。
日本はまたぞろ同じ歴史を繰り返すだろう。なぜなら大東亜戦争敗北について国民が共有する「答え」を見出していないためだ。