・『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
・『未来を改造する【ザ・パワー】のしくみ 想定の『超』法則』ネヴィル・ゴダード
・イタコ系悟り本
・『イェシュアの手紙』マーク・ハマー
・『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
・『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ
・悟りとは
この本は、私の内なる声と夫フィルとの対話集です。
【『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー:奥野節子〈おくの・せつこ〉訳(ナチュラルスピリット、2022年)以下同】
私が苦手とするイタコ系悟り本である。それでも参考になることが多かった。一神教世界には有効な手立てなのだろう。エリン・ウェアリーはある日突然神の声を聴く。天啓といってよい。夫との対話は二度目から録音された。
エリン・ウェアリーが巫女(みこ)的な役回りをしているわけだが、シャーマンと沙門が同じ語源に由来することを思えば、軽々しく否定することが躊躇(ためら)われる。
日常の人間関係においても同様だが、脳には何らかの波長を受け止めるセンサーがあるのは確かだろう。俗に、「馬が合う」「気が合う」「反りが合う」「息が合う」「肌が合う」などと言うが、意外と侮れない感覚である。
何らかの電気的・化学的な刺戟がシナプスのつながりを変容させることは十分考えられる。それが論理的に現れるタイプと人格的に表れるタイプが存在するのだろう。
鎌倉仏教がブッダの教えから変質したのもシャーマニズムの影響から見直すのが手っ取り早い。マントラや祈祷に傾くのも当然か。
私の名前はI Am(私は在る)です。おそらくあなたは、“神”という呼び名をずっと使っていたかもしれません。しかし、私の名前が何であるかは、重要ではありません。大切なのは、私が誰であり、あなたが誰であるかということです。
私はすべてです。私は存在するありとあらゆるものです。
非物質世界とは、思考が集積したところです。あなたが生きている物質世界は、単に、それらの思考の一つひとつが投影されたものです。あなたが五感を通して感じている物質世界のものすべては、私の思考によって創造されました。
あなたは無限に近い思考の一つの投影です。あなたが新しい思考を巡らすたびに、それは非物質世界で始まり、物質世界へと投影されます。あなたが自らの意識と呼ぶものは、非物質世界に存在し、あなたにとって本物のように思える物質世界へと投影されています。私はいつも、何十億という人たちの思考をすべて物質世界へと投影しています。私は、あなた方一人ひとりです。あなたの思考は私の思考です。そこに区別はありません。ですから、あなたは神なのです。
E=mc²から質量とエネルギーの等価性が導かれる。エネルギーは非物質世界と考えてよかろう。しかしながら物質に作用する。
思考や感情もまた非物質世界である。仏教的な観点だと「念」といった方がわかりやすい。「石に立つ矢のためしあり」(一念岩をも通す)との俚諺(りげん)は李広将軍の故事に由(よ)るものだ。
「あなたは無限に近い思考の一つの投影です。あなたが新しい思考を巡らすたびに、それは非物質世界で始まり、物質世界へと投影されます」――価千金の値打ちがある言葉である。
脳は感覚の奴隷である。たとえそれが偽りの感覚であったとしても脳は真実と錯覚する(幻肢痛や妄想)。ともすると幻聴・幻覚を単なる病気の症状と捉えがちだが、睡眠時に夢を見るのと何ら変わりがない。我々は目をつぶっているのに夢を「見る」のだから。つまり「見る」という行為は、目に映る世界をそのまま捉えているわけではなく、脳が感じ取っている世界なのだ。
感情に基づく思考はおおよそ妄想であるといってよい。大抵の場合、そこに何らかの昏(くら)さがある。自分が損をしない方向に思考は巡らされる。特に経済が行き詰まると思考は劣情にまみれやすい。多分ここから暴力が生じ、やがて戦争に至るのだろう。
そう考えると今の心配事に人生が凝縮されているような気がする。心の巡らせ方で人生の色合いは全く変わる。
私は神であっても木石(ぼくせき)であっても構わないのだが、もって生まれたエネルギーだけは解放したい。その時何かを悟ることだろう。