古本屋の殴り書き

書評と雑文

判断も妄想/『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬

『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『仏陀の真意』企志尚峰

・『必生(ひっせい) 闘う仏教佐々井秀嶺

 ・判断も妄想

・『偶然のチカラ植島啓司
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
・『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

ブッダの教えを学ぶ

 執着というのは、「それがかなわずしては苦しみ・不満を感じる」心です。


【『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬〈りゅうしゅん〉(WAVE出版、2011年)以下同】

 草薙龍瞬の初著で本書だけ苗字が平仮名表記となっている。執着といえば普通は「強い欲求」を思い描く。しかし、日常生活の中で長時間にわたって重力のように負荷をかけるストレスの方が問題かもしれない。つまり慢性疾患のような慣性が「業」(ごう)として働くのである。

 私の場合、欲望は強くないのだが不満が多い。ミスター不満といってよい。組織や人間関係の改善に関して、不満を一つずつ潰すことで理想に近づけると信じているところがある。「おう、おう、ふざけんじゃねーぞ」が口癖となっている。

 不満の主体は自分自身である。すなわち、環境ではなく不満を感じる自分に問題があるのだ。結局、不満も「形を変えた依存」なのだろう。

〈判断〉が悩みをもたらす場合には、大きく三つあります。
(1)遠慮・ためらいを生む判断、(2)自分を縛(しば)る判断、(3)人間関係をこじらせる判断、の三つです。

 これは中々奥が深い指摘だ。1は迷い、2は人からどう見えるか、3はレッテル貼り。

【自信がない・劣等感(コンプレックス)】も、判断です。
「自分は能力(価値)がない」「ひとより劣っている」という思いこみです。
 その思いこみゆえに、引っこみ思案(じあん)、消極的になったり、小さなミス一つで激しく落ちこんだり、ひとの言葉に過剰反応して傷ついたり怒ったりします。

 思い込みが「現実を歪める」。

 ちなみに、ブッダの思考法では、判断はアタマの中に浮かぶ妄想の一つです。
「自信がない」のも「自信(プライド)がある」のも、アタマの中の判断、つまりは実体のない妄想ですから、どちらも意味がないと考えます。

 これは知らなかった。初耳である。自己認識そのものが妄想の可能性がある。「私」という錯覚。

 人間関係がうまくいかない場合は、ほとんど判断(思いこみ)が原因です。
 思いこみゆえに相手が「わからなくなる」一番の例が、(相手を見ない)一方的な恋愛でしょう。

 勝手に舞い上がったり、勝手に傷ついたりした覚えは誰にでもあることだろう。

 三つめのラベルは〈怒り〉です。平たくいうと、「不快な感情」です。

 感覚は快・不快に基づく。不快=怒りと気づかないところに落とし穴がある。怒りへの考察が更に深みを増す。

 焦りという不快感は、怒りです。ミスして落ちこむのも怒り――日常生活で感じる不快感(ストレス)は、すべて怒りです。

 不快感は結局、状況(外側)と自分に向かっているのだ。

 怒りは、その方向性によって、ひとへの怒りと、自分への怒りに分けることができます。

 易怒性(いどせい)は外に放たれるが、普段は大人しそうに見える人でも不快感の虜になっている人も、やはり「怒り」という感情に翻弄されているのだ。

「逃げたい」「やめたい」と思うことは、誰にでもあると思います。この反応は、実は怒りです。

 はあ~(溜め息)。ここで初めてわかるのである。闘争・逃走反応が怒りに基づく本能であることに。

 ブッダが怒りを諌めたことは知っているつもりであったが、よもやこれほどのレベルとは思わなかった。

怒り
アルボムッレ・スマナサーラ