古本屋の殴り書き

書評と雑文

頭頂の蓮華/『大安般守意経入門 苦を滅して強運になる 正しい呼吸法で無心な判断を』西垣広幸

『古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす』大宮司朗
『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌

 ・頭頂の蓮華
 ・自己の内面に問う
 ・週に1日は出家したつもりで過ごす

『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ

お腹から悟る

 経「上頭を見れば、苦しみの原因は生じない。」

 上頭は最初という意味に使われていますが、私は上頭を文字通り解釈したいと思います。上頭にある頭頂のチャクラとそれに付属する甘露に、自分の意識を完全に集中すれば、大変気持ちが良くなって、苦しみが滅ぶからです。
 ヨーガの経典『シヴァ・サンヒター』(『続ヨーガ根本経典』佐保田鶴治訳)には次のように書かれています。

「頭蓋骨の穴の中に甘露が輝いている。この甘露を見ただけで過去の罪の山を焼き尽くすことができる。甘露を見ると未来が突如として開き、心は無念無想になる。すべての天体から好意を寄せられ、すべての災厄は消える。牛乳の大海のような中の甘露を見る結果、すべての不幸は静まり、戦いにおいて勝利を得る。すべてのことは、この甘露に自分の意識を完全に集中させるだけで入手することができる」
「この甘露の上に、神々しい姿の頭頂の蓮華がある。頭頂の蓮華は、肉体の外部にあって人を解脱させる。破滅を知らない。頭頂の蓮華を知るだけで、人間たちの輪廻の中に再生することはもはやない。頭頂の蓮華に自分の意識を完全に集中できれば、病から逃れ、災難を克服し、死をまぬがれて長寿を保つ。頭頂の蓮華に自分の意識を完全に集中することを休みなく行うならば、ついには世を忘れる。その時、必ずや種々の霊力を得る。頭頂の蓮華に自分の意識を潜入させて、大虚空を不断に思念しなさい。この大虚空は千万個の太陽の輝きを持ち、しかも千万個の月の涼しさを持っている。自分の意識を半秒間でもこの大虚空に止める人があれば、彼の罪の集積はその瞬間に消失する」

 このように、上頭に自分の意識を完全に集中できれば、すべての罪が消えて、言葉では説明できないほど大きな楽が生じます。そして黒色、灰色、赤色、茶色の汚い光から作られている悪い意を滅ぼしてくれるのです。
 頭がい(ママ)骨の穴がムズムズしたり痛くなって、腹から上昇した喜の原因である白色の光が頭がい骨の穴から飛び出し、頭頂のすぐ上に小さな雲のように浮かぶようになります。これが頭頂の蓮華です。キリストは鳥の巣と言っています。
 さらに精進すると、頭がい骨の穴から上方に向かって太い管が生死、その両側に一本ずつ細い管が逆八の字型に生じます。(89~91ページ)

【『大安般守意経入門 苦を滅して強運になる 正しい呼吸法で無心な判断を』西垣広幸〈にしがき・ひろゆき〉(同友館、1993年)】

 間もなく読了するのだが、最初から最後までこんな調子である。文章や解釈に牽強付会の臭いがある。わかりやす過ぎて胡散臭い坊さんの説教みたいな印象がある。あるいは美輪明宏のような……。逆説的ではあるが、それゆえに新たな発見もまた多かった。

「さて、『大安般守意経』は、いわゆる経典としての体裁をまるでなしていない――いわゆる経典、仏所説としてただちに依用することは出来ません」(『仏説 大安般守意経』(解題・凡例) * 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺)との指摘がある。とすると、アーナパーナ・サティは仏教界のニューエイジだったのだろう。

 結論から述べよう。私はこの文章を読んで、白隠禅師の「軟酥の法」がわかったような気がした。一種の神通力が発揮されるのだろう。神に通じる力なのだから神経に働いても一向におかしくない。

 これを「内なる変容」と表現してもいいだろう。静謐(せいひつ)や静寂を静的に捉えるのが凡夫の常であるが、何か底しれぬ豊かさがあるに違いない。達磨面壁九年は法悦なくして不可能だ。手足が腐っていたことにも気づかなかったというのだから(※だからダルマの置物には手足がない)。

 苦を離れた瞬間に楽が生ずる。あるいは楽が苦を打ち消すのかもしれない。

 本書に書かれているのは「ネドじゅんの後の世界」である。そう達観するとぐっと面白味が増す。