・『古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす』大宮司朗
・『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦
・『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
・『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
・頭頂の蓮華
・自己の内面に問う
・週に1日は出家したつもりで過ごす
・『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ
経「愛着かどうかを区別できることが知である。愛着の原因に自分の意識を完全に集中しなさい。」
愛着というのは、偏見や先入観によって判断し、本来の自己が欲しないものにかじりつくことです。この時には、湿った薪が燃えているようなもので、黒色や灰色の汚い煙を出して燃えているように見えます。だから愛着は不浄なのです。
【『大安般守意経入門 苦を滅して強運になる 正しい呼吸法で無心な判断を』西垣広幸〈にしがき・ひろゆき〉(同友館、1993年)以下同】
挙げられた経文に「愛着」の字はない。ただし、大安般守意経の論旨には適っているので翻案というほどではない。
触れごこちの良さそうなものに触れたいという感覚はだれでも持っています。だが、この経ではそれは罪だといっています。また、触れごこちの悪そうなものに触れたくないという感覚もまた罪だといっています。(中略)
さて、どうしたらいいのかといえば、社会の常識、他人の意見、自分の経験などを無視して、先入観や偏見なしに自分の意識を完全に集中しながら、自分の内面に「どのような感じがするのかな?」と静かに尋ねます。そして20秒~2分後に良い気持ちが自然に出て来て、手に入れる(ママ)ようと思うと、さらに気持ちが良くなる場合は、実際に得る行動をとるのです。逆に、20秒~2分後に不快感が自然に出て来て、その不快感に気づいて止めておこうと思うと、頭がスーッとしたり気持ちが良くなる場合は、実際に得ようとする行動をとらないのです。
自分の内面に「どのような感じがするのかな?」と静かに尋ねても、良い気持ちも不快感も出て来ない場合は、自分の心が汚い鏡のように汚れているために反応しません。数息や相随をして心の汚れを取り除き、呼吸がかすかでおだやかになり、自然に止まってから、再び「どのような感じがするのかな?」と静かに尋ねます。そうすれば答えは内面から自然に出て来ます。
このようにすることが、罪のない本来の自己に忠実な生き方であり、このように生きれば苦しみを滅ぼしたり苦しみを生じさせないのです。正しい苦しみのない心が自然に生じ、ますます落ち着いてくるのです。
快に近づき不快を避けようとするのは欲の反応である。仏教では欲に従う生き方を不幸と名づける。
あまりにも俗っぽい説明だが、決して侮れないヒントがある。論理ではなく直感に従うところがミソだ。直感は直観より浅いが、答えを導くことができるのだろう。梯谷幸司〈はしがい・こうじ〉はもっと端的に「未来の記憶を思い出す」と表現している。
計算可能な社会のあり方が生きる力を弱めている。現代人は不測の事態に対応するのが苦手だ。だが、人類200万年の歴史を振り返れば、その殆どは狩猟採集に勤(いそ)しみ、様々な外敵や自然災害を乗り越えてきたのだから、動物に優(まさ)るセンサーを備えていたはずだ。
それは漁師が風を読むといった経験に基づくものではなく、もっと本源的な生死の境を察知する性質であったと私は想像する。不慮の事故は現代の方が多いような気がする。
取り敢えず、喫煙する時、コーヒーを飲む時、食事の時、100円ショップへ行った時などに試してみようと思う。「本当に今それが必要なのかどうか?」と問うことは決して無意味ではないはずだ。