古本屋の殴り書き

書評と雑文

無明とは/『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ

『古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす』大宮司朗
『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
『大安般守意経入門 苦を滅して強運になる 正しい呼吸法で無心な判断を』西垣広幸

 ・無明とは
 ・パーリ原典全訳

『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

お腹から悟る
身体革命
必読書リスト その五

【無明(Avijjā)】:無自覚であること。自分が心の深いところで何を欲しているのか、身体で何を感じているのかを自覚できないこと。自分の行動を引き起こしている本当の動機が何かを知らず、自分が今何を言っているのか、自分の体がどう動いているのかに気づかないこと。また、自分は誰なのか、なぜ生まれてきたのか、なぜ苦しむのかを知らないことなども無明に含まれます。この無明の反対、無明を超越するものが智慧です。(118ページ)

【『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ(佼成出版社、2005年)】

 パーリ語を優先して横書きとなっている。普段であれば横書きの本は読まない。『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』の訳者として井上ウィマラの名は知っていたが女性だと思い込んでいた。曹洞宗ミャンマーテーラワーダ仏教で出家。カナダ、アメリカ、イギリスで瞑想指導を行いながら心理学を学ぶ。米国の地で還俗(げんぞく)した。

 心理学に関する記述が余計だと感じると本書の評価を誤る。たぶん慎重な性格なのだろう。特筆すべきは初期仏教と後期仏教(大乗)が融合したような筆致になっていることだ。これが意図したものなのか、日本人という特質によるものなのかは判別がつかない。テーラワーダ仏教全般に見られる後期仏教(大乗)に対する嘲(あざけ)りが全く見られない。

 このテキストは十二縁起を解説している件(くだり)である。

 比丘たちよ、縁起とは何か。比丘たちよ、無明により行が起こり、行により識が起こり、識により名色が起こり、名色により六処が起こり、六処により触が起こり、触により受が起こり、受により渇愛が起こり、渇愛により取が起こり、取により有が起こり、有により生が起こり、生により老死が、愁悲苦憂悩が生じる。 このようにして、全ての苦蘊は生起する。

パーリ仏典, 相応部 12-2 分別経, Sri Lanka Tripitaka Project

 無明は仏教の教えの中で、様々な文脈での無知・誤解として取り上げられている。

四諦についての無知
・十二因縁における最初の輪
大乗仏教における三毒のひとつ
大乗仏教アビダルマにおける6つの煩悩心所のひとつ
上座部仏教における十結のひとつ
上座部仏教アビダルマにおける癡(moha)に相当

無明 - Wikipedia

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

【『仏教とはなにか その思想を検証する大正大学仏教学科編】

 ヴェーダとはバラモン教ヒンドゥー教聖典である。ブッダの文化的背景である。ともすると知識と智慧を相反するものとして対比して知識を軽んじる傾向があるが、「知る」の一字に注目すれば無明が浮かび上がってくる。

 ポール・ゴーギャンはこの絵に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」と署名した。


【左上部分】

「本作を手掛ける直前のゴーギャンは愛娘アリーヌを亡くしたほか、家から立ち退きを余儀なくされ借金を抱えた上に健康状態も悪化するなど、失意のどん底にあった。実際に本作を描き上げた後に自殺を決意しており(未遂に終わる)、自身の画業の集大成と考え、様々な意味を持たせたと言われる」(Wikipedia)。

 画面中央には原罪を負った人間の起源が暗示され、神の戒めに背き赤い果実を摘む最初の人物が描かれている。そのポーズはレンブラント派の裸体デッサン(ルーブル美術館蔵)を参照したといわれる。眠る赤ん坊は生命の誕生と原罪以前の人間を示し、画面左下には大地に腕をつく若い女と死を象徴する老女が並び、白い鳥が生命の輪廻を示唆する。画面の前景では右から左へと東洋の絵巻物のように人間の一生を描き、中景では左から右へ視線を誘導し、再び誕生へ戻るよう再生を暗示した。生と死、天と地、人間と自然、西洋と東洋、大人と子ども、精神と物質、野蛮と文明など、相反するイメージが有機的につながり、各部分のモチーフが画面のなかで統合されていった。作品の不可解さは鑑賞者の内部に割り切れないものとしてよどみ、もどかしさと想像力を喚起させながら、忘れられない刻印を残す。

ポール・ゴーガン《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》――人間再生の問い「六人部昭典」

 そこはかとなく十二縁起や四諦と響き合っている。この作品はゴーギャンの苦から生まれた花であったのだろう。

 キリスト教において「智慧の実のリンゴ」は罪の象徴とされる。アダムが神に嘘を吐(つ)いたためだ。青い仏像は光を放っていない。ゴーギャンにとっては異世界の存在だったのか。じっと見ていると六道輪廻の曼荼羅に思えてくる。

 無明が不幸の原因であれば、知ること・自覚すること・気づくことが悟りなのだろう。