古本屋の殴り書き

書評と雑文

体操とは/『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三

『漢字 生い立ちとその背景』白川静
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編
・『子どものからだは蝕まれている。』正木健雄、野口三千三
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操
『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
『野口体操・おもさに貞(き)く』野口三千三
『野口体操・ことばに貞(き)く 野口三千三語録』羽鳥操

 ・体操とは
 ・魔法の体操
 ・次の瞬間、新しく仕事をすることのできる筋肉は、今、休んでいる筋肉だけである
 ・尻歩きと会陰

『身体感覚をひらく 野口体操に学ぶ』羽鳥操、松尾哲矢
『アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司(DVDブック)』野口三千三、養老孟司、羽鳥操
『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
『誰にでもわかる操体法』稲田稔、加藤平八郎、舘秀典、細川雅美、渡邉勝久
『生体の歪みを正す 橋本敬三・論想集』橋本敬三

身体革命
必読書リスト その二

 素粒子や素領域の研究が、宇宙の根源を探る手がかりになることを疑う者は少ない。が、一人の人間の中身を探ることが、宇宙を探る手がかりとなることを信ずる者が何人いるだろうか。
 私は、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、今ここで直接、体験するからだの中身の変化の実感によって、人間(=自分)とは何かを探検する営みを、体操と呼んでいる。自分というまるごと全体の生きものが、そっくりそのまま実験研究室(アトリエ)であり、研究材料(素材)である、というあり方である。
「自分自身という存在にとってからだとは何か」ということに、無性(むしょう)に興味をもち、それを探検する営みに、あえてこだわって生きてきた私は、今、次のようにいいなおしてみる。
「自分の中にある、大自然から分けあたえられた自然の力により、自分の中にある、大自然から分けあたえられた自然の材料によって、自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、そのような営みを体操と呼ぶ」(はしがき)

【『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三〈のぐち・みちぞう〉(三笠書房、1972年改訂版、岩波同時代ライブラリー、1996年岩波現代文庫、2003年)】

 1975年の時点で素粒子に触れている例をあまり知らない。私が知る限りでは小林秀雄くらいだ。そもそもアインシュタイン相対性理論すら理解する人は少なかったことだろう。「素領域」なる言葉を初めて見たが、湯川秀樹が提唱した理論に基づくもの。

「都市は自然を排除する」とは養老孟司〈ようろう・たけし〉の持論である。その養老が文庫版の解説を書いているのだから、全く不思議な縁である。

 普通の人は家の中に現れたゴキブリを嫌悪する。我々は自然を嫌い、排除する。もともと建築物そのものが雨露(あめつゆ)を防ぐ目的で作られているのだから致し方ない。設計・計算に基づいたスペースは快適さを保証するものでなくてはならないのだ。

 そんな都市部にあって最後の自然というべきものが実は「人体」なのだ。体は授かりものだ。多少の筋肉をつけたり、顔の造作を変える(=整形手術)ことはできても、手脚の長さや遺伝情報を変えることはできない。運動や歌声には天性や才能がつきまとう。体は自分の思い通りにならない。自然と同じく所与の要件といってよい。

 野口三千三の主著を半ばまで読んだが、ページを繰るごとに私は唸(うな)り声を上げた。その思想や哲学性の深さに打たれるのだ。独力で我が道を歩み通した孤高の姿勢に震えるのだ。

 中国の路上で行われている太極拳のように、日本全土で野口体操が行われるようになる日を私は待ち望む。