・『唯脳論』養老孟司
・『カミとヒトの解剖学』養老孟司
・『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
・我々が知り得るのは「脳に起こっていること」
・われわれが知っている世界は脳のなかだけだ
・ヒトには2種類の情報がある
われわれは「世界はこういうものだ」と信じているが、それは脳がそう信じているだけである。
【『養老孟司の人間科学講義』養老孟司〈ようろう・たけし〉(ちくま学芸文庫、2008年/筑摩書房、2002年『人間科学』改題)以下同】
再読。やはり名著。何度も書いて恐縮だが養老孟司は隠れ左翼である。意外と見抜いている人が少ないので敢えて記しておく。私は養老の推薦図書を見てたちどころに理解した。池田清彦との共著があっても武田邦彦との共著がないことからも明らかだろう。『唯脳論』以降、そこそこ養老本を読んできたが全く気づかなかった。よほどの意志の強さと注意深さが窺える。そこにスパイのような胆力と知力が垣間見える。私がたまたま見た推薦図書は、老いてボロが出てしまったのだろう。腹蔵の人物と評する。ついでに触れておくと、養老と親しい茂木健一郎の場合は左翼というよりはリベラルだろう。ただ、彼もまた保守系論客との接点は異様に少ない。
われわれが知っている世界は脳のなかだけだ。
これを仏教では唯識(ゆいしき)と名づける。「世界は感覚の中にある」と私が書いてきたのも唯識に基づいている。
幸か不幸か、われわれの脳は外界に向かって開かれている。それは日夜、外の世界からのありとあらゆる情報に接している。だからわれわれの脳は、じつは絶えず変化しているはずである。しかしヒトはどうも自分の変化を認めることを嫌う傾向があるらしい。だから外の世界をできるだけ固定してしまう。それが文明社会、私のいう脳化社会である。そこには脳に合った(と意識が思っている)世界が生じてくる。われわれはそうした世界のただなかに生きている。
翻訳・解釈の限定性を指摘したものだ。我々は世界の極めて狭い部分しか認知できない。
実はこの指摘は、ネドじゅんの右脳論と軌を一にしている。過去や我(が)や存在を固定するのは左脳の働きなのだろう。「変化に適応する」とは変化を楽しむことだ。
「我(が)の世界」から離れることができるかどうか。今、人類に問われている。