・『唯脳論』養老孟司
・『カミとヒトの解剖学』養老孟司
・『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
・我々が知り得るのは「脳に起こっていること」
・われわれが知っている世界は脳のなかだけだ
・ヒトには2種類の情報がある
一般的にいえば、情報にはそれが流通する場と、変換・翻訳の場とがある。日常の情報、つまり脳が関係する情報では、流通の場は主に社会であり、変換・翻訳の場は脳だということになる。
【『養老孟司の人間科学講義』養老孟司〈ようろう・たけし〉(ちくま学芸文庫、2008年/筑摩書房、2002年『人間科学』改題)以下同】
情報はコミュニケーションがあって初めて成り立つ。言葉だけでは情報たり得ない。言葉を受け取る人がいて初めて情報は機能するのだ。すなわち、誰もいない森の中で木が倒れても、その音は認識されない(厳密に考えれば音の波動が周囲の植物に与える影響はあるだろう)。尚、ここで養老がいうところの情報は「有意味」という規定で語られており、物理情報とは異なる。
ところがヒトについて、もう一つ、これとは別に「情報」と呼ばれるものがある。それは遺伝子である。
意外と見落とされている視点である。
それならその情報はどこで「翻訳される」のか。その翻訳の場は、むろん脳ではない。細胞である。細胞は遺伝子の翻訳と複製の装置を持っている。翻訳・複製されるのは、ふつうは自己の遺伝子だが、その遺伝子がウィルスのものであってもかまわない。もしこの翻訳複製装置がなければ、ウィルスはいつまで経ってもウィルスのままである。
具体的にはタンパク質の形成として「翻訳」される。
こうして、ヒトは2種類の情報世界を生きている。一つは脳とその情報の世界あるいは意識的な世界であり、もう一つは細胞と遺伝子の世界、つまりほぼ完全に無意識の世界である。還元すれば、脳の世界はいわゆる心や精神、社会や文化の世界であり、細胞と遺伝子の世界は身体の世界である。そう思えば、情報という新しそうに見える概念から見ても、伝統的な見方で見ても、ヒトの世界が心身にほぼ二分されることは同じである。
無意識領域を「細胞と遺伝子の世界」としたのは卓見であると思う。一般的には脳の深層(下部領域)と考えられがちだ。それを脊髄まで拡げれば「身体」である。
ネドじゅんは「エレベーターの呼吸法」と共に、「意識を体に向ける」ことを教えている。学問の発達は論理を強化し、感覚を弱体化してきた。感情は「克服されるべきもの」と格下げされ、社会のルールに従うことが「正しい」と教育された。
天才数学者・岡潔〈おか・きよし〉は「情緒」を説いた。「数学は直観と情緒だ」とまで断言した。日本人であれば惻隠の情であろう。情緒は感情よりもっと深い部分に存在する。民族的な叡智の川が流れているのだろう。
養老孟司が説く脳化社会は、ネドじゅんが教える「左脳の論理」と一緒である。であるならば、これから「身体の時代」「右脳の時代」が花開くのだろう。