・『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル
・『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン
・『凍(とう)』沢木耕太郎
・『銀河を渡る』沢木耕太郎
・『ポーカー・フェース』沢木耕太郎
・『ソロ 単独登攀者 山野井泰史』丸山直樹
・『白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻』NHK取材班
・『垂直の記憶』山野井泰史
・『アルピニズムと死 僕が登り続けてこられた理由』山野井泰史
・『いのち五分五分』山野井孝有
・世界最強ソロクライマー"山野井泰史"50年の軌跡 伝説のクライミンング人生を世界一詳しく解説!!【ゆっくり解説】
・無心 山野井泰史:Mushin - Being Yasushi Yamanoi
・ピオレドール生涯功労賞を拒んだ男
その中にクリスチャン・トゥルムドルフという知らない男のメールがあった。
「2009年4月22日から25日にシャモニで開催されるピオレドール(金のピッケル)イベントの審査員として、あなたをお迎えしたい」
登山界のアカデミー賞として知られ、毎年開催されるピオレドールは、大胆で革新的な登山や、生涯をかけて達成された登山の功績を対象としている。シャモニの山岳ガイドでピオレドール賞委員会委員長のクリスチャン・トゥルムドルフは、史上最高のアルピニストの一人であるクルティカに、ピオレドールの審査員になってほしいと考えていた。しかし、その回答は予想に反するものだった。ピオレドール審査員へのご招待、心より感謝します。申し訳ありませんが、お引き受けすることはできません……。とどまるところを知らない競争社会では、登攀もまた、賞や優劣を競わざるを得ないのだと理解しています。しかし、このような社会構造は真の芸術の敵です。賞や優劣に支配されると、真の芸術性は失われます。登山は身体と精神を高みへ押し上げ知恵を与えてくれますが、賞や優劣は虚栄心や自己中心性を高めます。そのゲームに参加するのは……クライマーにとって危険なことです。私は、そういったゲームに参加するつもりはなく、あなたの誘いを受けることもできません。
その「ゲーム」に対する思想的な立場の違いとは別に、クルティカは「肥大化する競争社会」の中でクライミングを格付けすることに困惑していた。誰がフランス人アルピニストのピエール・ベジャンによるマカルー縦走と、日本人クライマー南裏健康によるトランゴ・タワー40日間のソロを比較できるというのか? また、クシシュトフ・ヴィエリツキの冬のエベレストと、エアハルト・ロレタンの「ナイト・ネイキッド」のエベレスト登山は同じだといえるのか? ラインホルト・メスナーの先駆的な精神とイェジ・ククチカの超人的なスタミナを同等に見ることは不可能だ。クルティカにとって、これは「セックスとクリスマスのどちらが良いか、と問うようなもの」だった。
クルティカは、アルピニズムは格付けし比較するにはあまりに複雑だと考えている。登山には審美的、身体的、形而上的、戦略的、創造的なあらゆる側面がある。また、そこにはたくさんの苦しみもある。クライマーの苦しみをどうやって測ることができるだろう。「ナンバーワンのスターを創り出し利用するためのメディアの圧力は、アルピニストを画一化する」と彼は返答した。「それはクライミングの本質を貶めるものだ」
クリスチャン・トゥルムドルフは、語気荒く返されたメールを思い出すと今でも微笑んでしまうが、落胆はしなかった。翌年には、より大胆なメールを書き、「生涯功労賞」を受けてほしいと頼んだ。そして再び、クルティカは答えた。これは悪質な誘いです。私はいつも、日々の社会的雑事から逃げるために山へ向かっているのに、あなたはその雑事に加われと言っているのです。賞や格付けなどの社会的束縛を避け自由を求めて山へ逃れているのに、あなたは賞を与えようとしている。私は、人間としての弱さを克服するために山々へ向かってきました。それなのにあなたは、自分を特別と錯覚する危険に私を晒そうとしている。私の人生はその錯覚との戦いです。賞や格付けはエゴにとって最大の罠であり、虚栄心の表われだと強く意識しています。申し訳ありませんが。お受けすることはできません。ピオレドール賞を受け入れることはできないのです。率直に言わせてもらえば、賞を拒否することも……わかってもらえるでしょうか、自分の虚栄心によるものではないかと恐れています。どうか私を讃えようとしないでください。クライマーは自由への強い意識を持っています。このような大きな名誉に直面する私の不安をどうか理解してください。
(中略)
クリスチャン・トゥルムドルフは、譲らなかった。彼は、クルティカが照れるふりをしているだけなのではないかと考えていたようだ。もう一度試す価値はあると、2010年に再び生涯功労賞を打診する3回目のメールを送った。クルティカは混乱した。はっきりと伝え切れていなかったのだろうか。もっと強く伝えねばならない。親愛なるクリスチャン
困りました。これは私には受け入れがたい提案です。もしも受賞すれば、自分自身に背くことになります。たしかに私は……人の親切と愛を求めていますが、賞賛をとても恐れているのです。賞賛されているときは孔雀のように誇りに思うでしょうが、それだからこそ、このような大きな賞を受けられないのです……。これらの賞は冒瀆にも似ています。あなたは何年も隠れて修行した僧を表彰するでしょうか。私は修行僧ではありませんが、経験は時に悟りをもたらし、人生を変えることがあります。私はこの貴重な瞬間を汚れのないままに守りたいのです。これらの瞬間を世間の栄誉と引き換えにするわけにはいきません……。クリスチャン、あなたの申し出に心から感謝しているのですが、それを受け入れることができず申し訳なく思っています。
友情とともに。ヴォイ【『アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生』ベルナデット・マクドナルド:恩田真砂美〈おんだ・まさみ〉訳(山と溪谷社、2019年/原書、2017年)】
山野井泰史〈やまのい・やすし〉がアジア人として初の生涯功労賞を受賞したのは2021年のことだった。13人目の受賞である。山野井は37歳の時にギャチュンカンで雪崩に遭遇した。一時的に視力を失った彼は、妻の妙子を救出するためグローブを脱いでクラックを探し、結果的に凍傷で5本の手の指と足の指すべてを失った。それでも尚、アルパインスタイルにこだわり続けながら、決して山をあきらめなかった。山野井夫妻はヴォイテク・クルティカとも組んだことがある。やはり一流は一流と引き合うのだろう。
書籍の出来はよくない。それでも最初と最後は読んだ方がいい。
わかりやすく言えば、「アカデミー賞を拒んだ映画俳優」に例えることができよう。
「あなたは何年も隠れて修行した僧を表彰するでしょうか」――なんと痛烈な言葉だろう。クルティカにとって登山は修行であり、登山という営みにおいて完結していたのだろう。あるいは登攀(とうはん)が即悟りであった可能性すらある。彼岸(ひがん)に達した者がわざわざ賞状をもらうために此岸(しがん)に戻ってくることがあるだろうか? 登山が己(おのれ)と山との対話であるならば、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)が介在する隙間は存在しないはずだ。
純粋にして苛烈なまでの情熱が言葉の端々に行き渡っている。生きるとはそういうことなのだろう。
ヴォイテク・クルティカの精神は栄誉や称賛を欲する人々の背に鞭を入れる。これを読めば誰もが目を覚ますことだろう。
なかなか僕より山が好きな人って出会わないんですけど、ポーランドのヴォイテク・クルティカという登山家だけは例外ですね。いっしょに組んでヒマラヤへ行ったときも、「あの山を見ろ、すごいな、きれいだな」って、ずっと言ってるんですよ。山の素晴らしさをものすごく全面的に感じているというのかな。「あそこにああいうルートが引けたら最高だろうな」と語っているときの彼の表情を見ると、山がものすごくきれいに見えて、ものすごく登りたいと感じていることが伝わってくる。
いまヨーロッパでクライマーに与えられる賞なども、当時のクルティカなら毎年総なめにできるぐらいすごいレベルだった。でも、たぶん彼は受け取らなかったでしょうね。そういうクライマーなんです。
「クルティカは僕にとってまさに理想のクライマーだ」。こう語った山野井泰史の映画『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』に今度はクルティカからメッセージが寄せられた。
「ポスターの彼の顔を見ると、黒澤映画のヒーローを想い起こします。人生で最も大切な価値観に忠実に生きる姿に、とても素晴らしい印象を受けました。彼を見ていると、誰もが悩まされているこの世の煩悩や虚栄心から心が洗われて気分が良くなります」と(ヴォイテク・クルティカが山野井泰史の映画『人生クライマー』に寄せた言葉)。