・天皇の絶対的権威
・親子が一緒に暮らすこともままならなかった明治時代
・不遇は精神を蝕む
・気違い-マニア-虫-オタク
・人間的な手応え
不遇というものは怖ろしいものだ、と通直は思わずにはいられなかった。際限のない不遇は、知らず知らずのうちに人間の精神を腐食する。節操も廉恥心も鈍化し摩滅するのだ。
曽根だけではない。ついに辞表を出す機会を失い、県庁幹部の軽侮に耳目をふさいでまで、僅かな安逸を失うまいとしている自分の見苦しさは、けっして曽根の破廉恥行為と異質ではないのだ、と通直は思った。【『石狩平野』船山馨〈ふなやま・かおる〉(北海タイムス、1967年連載/河出書房新社、1967、1968年/新装版、1989年/新潮文庫、1971年)以下同】
伊住通直〈いすみ・みちなお〉は武家の生まれで、開拓使の小書記官として北海道へ渡った。井住一家は小樽で鶴代と擦れ違うが、後に鶴代を下女として雇うようになる。通直は黒田清隆長官を尊崇するあまり、払い下げ政策について諫言(かんげん)を行う。それまで黒田派と一目置かれていた通直は、黒田から邪険に扱われて出世コースから外れる。
最も社会に適応する人物をエリートと呼ぶのであれば、その浮き沈みは極めて政治的な影響を受ける。今般の自民党総裁選で石破茂が選出された背景にも同様の力学が働いたであろうし、霞が関の官僚から地方の役人に至るまで熾烈(しれつ)な出世競争にさらされて、本来の目的を見失い、一身の栄誉栄達しか見えなくなるのだろう。資本主義社会におけるゲームは結局、カネに換算される。
通直の零落(れいらく)はここから始まる。
創成川畔にでると、若葉をつけた岸の柳がそよ風に揺れて、川面には青い5月の空が映っていた。
「いいわね、いまごろの札幌は」
素江は深く息を吸って、あたりを見まわしながら言った。
「いち時、なにをする気もしなくなって、このまま庄内に引込んでしまおうかと思ったんだけれど、やはり帰ってきてよかったと思うわ」
「でもおかみさん、このあいだも大雨で豊平川があふれて、鴨々水門も切れましてね、大騒ぎだったんですよ。この川の水も通りまであがってきましてね、わたしゃお店にたったひとりでござんしょうが。ほんとにどうなるかと思いましたよ」
松乃ばあさんは愚痴っぽい口調になった。
懐しい地名が次から次へと出てくる。創成川(そうせいがわ)に続いて鴨々水門が出てきてギョッとなった。現在も中島公園内に鴨々川(かもかもがわ)という小さな川が流れているが、上下に太いロープを渡した場所がある。高校時代、よく先輩に落とされた場所だ。私は2年の時にも一度落とされていて、思い切り不貞(ふて)腐れたところ後でボコボコにされた憶えがある。
素江もまた運に見放され、落魄(らくはく)の人生を歩むこととなる。
不遇は精神を蝕む。不遇を恨めば恨むほど心は腐敗の度を増し、骨まで腐ってゆく。