古本屋の殴り書き

書評と雑文

動物や昆虫も遊ぶ/『言葉を使う動物たち』エヴァ・メイヤー

・『生物から見た世界』ユクスキュル、クリサート
・『ソロモンの指環 動物行動学入門』コンラート・ローレンツ
・『世界を、こんなふうに見てごらん日高敏隆
・『春の数えかた日高敏隆
・『ウォード博士の驚異の「動物行動学入門」 動物のひみつ 争い・裏切り・協力・繁栄の謎を追う』アシュリー・ウォード
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー

 ・ミツバチのコミュニケーション
 ・動物や昆虫も遊ぶ

『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 1匹のメスのイヌが、1匹のオスのイヌを見つけると、そちらに向かって走っていき、正面1~2メートルのところで急停止して、頭を下げる。メスは上半身(頭側)だけを低くして、後ろ脚を立てたままの姿勢だ。そして、尾を振る。オスが反応しなければ、メスはオスに向かって吠えかかる。このときのメスの姿勢が「プレイボウ」だ。(中略)
 遊びではほとんどの場合に、協力と競争の相互作用が存在する――動物は自分の力を試し、ともに作業するのだ。
 イヌやほかの動物が遊ぶのは楽しむためだけではない。(※マーク・)ベコフは、遊びが非常に多くの行動や表現に及ぶもので、それらは種によって性質がまったく異なるようでもあると指摘している。遊びにはつねに特定の機能があるとは限らないようで、何かの振りをするといった創造性が重要となる。動物は自分が他者の意図を理解していることを示し、遊びにおける戦いの構えは、遊びでないときの戦いの構えとは違う意味を持つ。プレイボウのようなシグナルはこの枠組みを構築する。他者の姿勢を見ること、発声やアイコンタクトも重要だ――動物は遊びながら絶えずお互いを見ている。動物は遊ぶことによって、群れにおける自分や仲間の強さや地位について学ぶのだ。
 もちろんイヌだけが遊ぶ動物というわけではなく、近年では動物の遊び行動についての研究がますます増えている。ほとんどの哺乳類は遊ぶし、鳥類、爬虫類、魚類も遊ぶ。遊びに似た行動は、頭足類、ロブスター、それから、アリやハチ、ゴキブリなどの昆虫でも見られる。

 遊びは本質的に創造的であるとカナダの哲学者ブライアン・マッスミは主張する。動物は遊ぶことで学習するが、遊びを学習行動や序列の構築に単純化することはできない。遊びは機能的なだけではなく、美しさや楽しさの役割もある。動物はそれぞれ独自の遊びのスタイルを発展させるので、みんな違うものになる。アドリブで好みが作られ発展していくので、文脈によっても違い、時間がたつにつれ変化することもある。たとえば、イヌは遊びの相手によって遊び方を使い分けることもあり、年齢があがるとともに遊びの始め方も変わっていく。
 すべての行動には創造的な構成要素があるとマッスミは主張する。それは、本能的に見えるものにさえあてはまるという。たとえあ、ウサギがいつもまったく同じ方法で逃げれば、捕食者はウサギの動きを予期できることになる。この行動の一定要素(逃げることなど)はつねに同じであるとはいえ、個々の周囲環境に合わせて変えなければならず、変化のばらつきや個別の情報を加える余地がある。(中略)創造的側面は、ワーム(蠕虫〈ぜんちゅう〉)のような種の行動にさえ見られる。ダーウィンはワームについて詳細な研究をして、ワーム1匹ずつを個性のある動物と見なし、ワームそれぞれが独自のやり方で刺激に対して反応し、ある種の抽象化が必要な学習も可能であるとした。

【『言葉を使う動物たち』エヴァ・メイヤー:安部恵子〈あべ・けいこ〉訳(柏書房、2020年)】

 20代後半の頃、「遊び」についてあれこれ考えたことがある。若い奴が「最近、遊ぶ場所がないんですよね」と嘆いたのを聞いた瞬間にピンと来るものがあった。私は心の中で「遊ぶ場所ってえのあ、空き地だろうが」と罵った。私が最後に隠れん坊をしたのは19歳の時だ(笑)。深夜の宵闇(よいやみ)に包まれた円山公園でやったのが最後だ。凄いのはあまりに暗すぎて、その場で伏せただけでも鬼から見えなくなってしまったことだ。

 昔の遊びはさしたる道具もなかった。せいぜい空き缶やゴム跳び用のゴム程度だ。チャンバラはその辺に落ちてる枝で十分だった。遊びは全て体を使うものだった。木登りなんか遊びの最たるもので、幼い頃は年長者が手を貸してくれた。ただ木に登る行為がどうしてあれほど昂奮したのか定かではない。視線が高くなることや、わずかな高さでも征服する感覚があるためか。

 その後、我々は野球に勤(いそ)しんだ。軟球とグローブとバットが必要になった。時折、サイクリングにも行った。私の世代が小学4年生になった頃、「でかい派手なウインカーが付いた自転車は恰好悪い」という価値観に落ち着いた。

 スペースインベーダーをやったのは中学2年か3年の時だった。100円玉はあぶく銭のように消え失せた。ゲーム機が出たのはその後のことだろう。文明の利器で遊ぶと少年少女は体を動かさないようになった。

 遊びが貧しくなったような気がしてならない。

 これとは別に「ハンドルの遊び」というのもある。ある種の余裕のことだ。F1やゴーカートのハンドルには遊びがない。素人が運転するには動きがクイック過ぎて乗りにくい。

 遊ぶ行為がある日常生活には余裕がある。

 スポーツは狩猟を「遊び化」したものと考えてよかろう。私は野球を全く見ないのだが、衰えない人気を見ると、人間は「投擲」(とうてき)に昂奮するのだろう。距離ではなく技を競う槍投げみたいな競技があってもおかしくない。あるいは手裏剣の要素を取り入れるとか。

 前回の記事で「自閉症スペクトラム障害ASD)」について触れた。ひょっとすると、幼児期に普通の遊びをしてこなかったことも病因になっているのではないか? これは研究の価値があると思う。10歳くらいまでは「遊ぶのが子供の仕事」だ。知らず知らずのうちに社会のルールや、伝統的な価値観を学ぶ機会こそが遊びなのだ。

 近所の子供が自然発生的に集まり、遊ぶようになれば、極端ないじめが発生することはない。喧嘩をすることはあっても翌日にはケロッとしているのが普通だ。年長者は体が大きいので逆らいにくい。もしも、下の名前で呼び合う幼馴染がいなければ、病気になっても当然だろう。それでは昆虫以下の人生だ。