古本屋の殴り書き

書評と雑文

ビッグブラザーと思考警察/『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳

『われら』ザミャーチン
『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく
 ・ビッグブラザーと思考警察

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー
『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ
ドキュメンタリー映画『プランデミック 3 ザ・グレート・アウェイクニング』〜PLANDEMIC 3: THE GREAT AWAKENING〜

必読書リスト その五

 階段の踊り場では、エレベーターの向かいの壁から巨大な顔のポスターが見つめている。こちらがどう動いてもずっと目が追いかけてくるように描かれた絵の一つだった。絵の下には“ビッグ・ブラザーがあなたを見ている”というキャプションがついていた。

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル高橋和久〈たかはし・かずひさ〉訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年田内志文訳、角川文庫、2021年山形浩生訳、講談社、2024年)以下同】

 当初、私はレンチキュラー印刷を想像した。その後、「八方睨みの龍」(天龍寺円頂寺にもある)や「振り向きドラゴン」を知った。

 チョウは翅(はね)の目玉模様で外敵から身を守る(福島市小鳥の森)。鳥よけの目玉風船や「見てるぞステッカー」はお馴染みだろう。

 目の写真やポスターに効果があるのは行動経済学の本でもよく指摘されている。

 ビッグブラザースマホGPS機能やクレジットカードの履歴、そしてSNS上の監視によって確立されたと考えてよかろう。ターゲティング広告などはビッグブラザーそのものである。そして何よりも恐ろしいのは、ビッグブラザーが人ではなくアルゴリズムであるという一点に尽きる。

 しかしパトロールはたいした問題ではない。〈思考警察〉だけが問題だった。

 テレスクリーンは「テレビジョンと監視カメラを兼ねたような機能を持ち、『真理省』(プロパガンダをつかさどる省庁)から発信される映像や音声を再生する一方、テレスクリーンの前にいる人々の映像や音声をどこかへ送信している。その特性のため、音量を下げることはできてもスイッチを切ることはできない。これは、作中の全体主義国家オセアニアを支配する党のプロパガンダの道具であると同時に、党が絶えず国民を監視するために使うための道具でもあり、オセアニア政府と党を転覆するための秘密の集まりを行う機会をつぶすものである」(Wikipedia)。

 ディスプレイのカメラは常に機能しているという噂が昔からある。マーク・ザッカーバーグのノートPCのカメラには付箋が貼られていた事実がよく知られている。昨今は特に中華製のコンピュータ商品は盗撮・盗聴されていると考えた方がよかろう。

 Wikipediaでは「思想警察」となっているが、思想だと政治信条による思想犯を連想するため、思考警察=シンクポルの方が訳としては適切だろう。

 自由な思考が罪とされる世界で、人間性がプレスされ、整形され、画一化した無個性な異形に至る様子をオーウェルは見事に描いている。

 戦争は平和なり
 自由は隷従(れいじゅう)なり
 無知は力なり

 党のスローガンは矛盾そのものだった。しかし、自由にものを考えることができなくなった人々はこのスローガンを経文のように諳(そら)んじるしかない。

 穿(うが)った見方をすれば、アメリカの軍産複合体や、ハリウッドおよびテレビ局による洗脳、リベラルの価値観を盲信してポリティカルコレクトネスに飛びつく人々を示唆しているように思われる。

 彼のやろうとしていること、それは日記を始めることだった。違法行為ではなかったが(もはや法律が一切なくなっているので、何事も違法ではなかった)、しかしもしその行為が発覚すれば、死刑か最低25年の強制労働収容所送りになることはまず間違いない。

 ウィンストン・スミスは苦心して手に入れたペンで、「1984年4月4日」と記した。「ノートを書くという行為は、『思考を肉体化する』ことです」(岡田斗司夫)。ウィンストンが確かな自由を手に入れた瞬間であった。

 奇妙なことに、自分を表現する能力を失ってしまったばかりでなく、元々言いたかったことが何であったかさえ忘れてしまったような気がした。

 思考警察の厳しい取り締まりが「記憶の欠落」を生んでしまったのだろう。

 だが我々も大差はない。何かいっぱしのことを言ったつもりになってる人は、大体誰かの言葉を受け売りしたもので、自分で何かを考えることは殆どない。そもそも大量の情報が行き交う社会では、何かを考え抜くことよりも、手っ取り早い結論や時流に乗った言説が好まれる。

 ほんのわずかな時間だったが、彼はオブライエンの目を見たのだ。オブライエンは立ち上がっていた。めがねを外しており、彼特有の仕草で掛けなおそうとしている。しかし1秒にも満たない時間、二人の目が合った。そんな短い時間ではあったが、ウィンストンには分かった――そう、間違いなく分かったのだ!――オブライエンは自分と同じことを考えていると、間違えようのないメッセージが伝わっていた。二人の心が扉を開き、双方の考えが目を通して互いのなかに流れ込んでいるみたいだった。「君と一緒だ」オブライエンがそう語りかけているように思われた。「君がどう今感じているかよく分かる。君の軽蔑、君の憎悪、君の嫌悪、すべて分かっている。でも心配はいらない。わたしは君の味方だ!」次の瞬間、知性の光は消え、オブライエンの顔は他の皆と同じに、曖昧で測り知れない表情を湛えていた。

 オブライエンと出会った日の日記に、ウィンストンは5回繰り返して書いた。「ビッグ・ブラザーをやっつけろ」と。

 オブライエンは真理省の高級官僚だった。ところがウィンストンに「党とイングソックを打倒しようとしている同胞団のメンバー」であることを明かした。

 ウィンストンの心の扉が開いた。そこにオブライエンという風が吹き渡った。かつて孤独の中で堪能した自由は、今二人の間で急流となって流れ通った。

 オブライエンについては、アーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』に登場するグレトキンからインスピレーションを得たという。

 末筆ではあるが、いつも応援して下さるrenngeさんのために書いたことを付記しておく。