・『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
・『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン
・『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ
・ラバーハンド効果(錯覚)~身体性の拡張
・VR(バーチャル・リアリティ)の特徴/『リアリティ+ バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』デイヴィッド・J・チャーマーズ
「ラバーハンド効果」は衝撃的な経験だ。それはこのようにして起こる。あなたは自分の右手を衝立の背後に隠しておき、そのすぐ近くに置いたゴム(ラバー)でできた偽の手(ラバーハンド)を見つめる。一人の友人が、あなたには見えない本物の手と、見えるけれども偽物のラバーハンドを、ランダムに、しかし両者を同時に、叩いたりなでたりする。しばらくすると――普通は1分以内に――あなたは、叩かれたりなでられたりしているのは自分の手ではなく偽物のラバーハンドで、その刺激が自分の心まで届いているように感じ始める。この錯覚と、これに関係するほかの錯覚についての先駆的な研究で有名なダイアン・ロジャーズ=ラマチャンドランとヴィラヤヌル・ラマチャンドランが、この錯覚が持つ深い意味への関心を呼び起こした。
私たちはみな、自分の存在について何らかの仮定を立てて生きていく……。しかし、疑問の余地はないと思えるものが一つある。それが、自分は自分の体に固定されているという仮定だ。ところが必要な種類の刺激を2~3秒与えられれば、自分の存在の自明の基盤さえものが、一時的に見捨てられてしまう。
数年前のことだが、私は1時間ほどのあいだ、同時に二つの場所に存在していた。私はマサチューセッツ州ケンブリッジの自宅で座っていたのだが、同時にスウェーデンのヨーテボリで、ある会議に出席していたのだ。それは私の、全身版ラバーハンド錯覚とでも言うべき経験だった。私は、1台のロボットの視線を何に注ぐのか、そしてその注意を何に向けるのかをジョイスティックで遠隔操作をしながら、そのロボットの「目」と「耳」を通して世界を見聞きしたのだ。さらに私は、人々とともに「歩き回り」、話をすることもできた。そのあいだ人々は、ロボットの私の一部である、スクリーンの上に映し出された私の表情を見ていた。私はステージの上を行ったり来たりしながら短いスピーチも行い、聴衆の反応にもちゃんと気づいていた。パネルディスカッションにも参加し、コーヒーブレイクではみんなと交流もした。
はじめのうちは、このシステムをどう使いこなせばいいかを学びながら、この状況の不自然さを私はしっかり認識していた。しかし、30分かそこら経って、生まれたときから使っていたかのように仕組みに馴染んで、意識して操作する必要がなくなると、私はまるで本当にヨーテボリにいるような気分になった。とはいえ、頭の片隅では、自分はやはりケンブリッジにいて、コンピュータ画面の前に座っているのだと意識し続けていた。私の意識は拡張したのだ――私のロボットが私の自己を広げたのである。【『すべては量子でできている 宇宙を動かす10の根本原理』フランク・ウィルチェック:吉田三知世〈よしだ・みちよ〉訳(筑摩選書、2022年)】
フランク・ウィルチェックは2004年のノーベル物理学賞受賞者の一人。最新の量子力学情報を流麗な筆致で紹介してくれるのだから感謝感激雨あられである。つくづく「いい時代になった」と痛感する。時間論としても稀有(けう)な一書となっている。そこそこ難しいのだが、美しい文章に引きずり込まれる。唯一の瑕疵(かし)は吉田の翻訳が時々あやふやになっていることだ。「ラバーハンド効果」は「ラバーハンド錯覚」とするべきか。
論より証拠でまずはご覧いただこう。下部のコントロールパネルから自動の日本語字幕を表示できるが、なくても理解できるだろう。
有名な実験である。動画ではラバーハンドだけの接触でも感覚があるようだ。すなわち、感覚は創造される。「拡張された身体性」は道具の使用を通して理解できる。クルマは脚の拡張であり、建設機械などは手の延長と考えられる。ユンボ(油圧ショベル)で習字ができるオペレーターもいる。武士の刀やカンフーのヌンチャクも同様である。あるいはもっと身近な靴や杖、眼鏡なども身体性を拡張する道具だ。つまり、クルマの運転が下手な人は「上手く拡張」できていないわけだ。
ところが、感覚まで拡張できるとなると話は別だ。ひょっとすると、「水槽の中の脳」が実現しつつあるのかもしれない。ラバーハンド効果のもう一つの真実は、「視覚は容易に騙(だま)せる」ということだろう。
引用された文献の書誌情報はない。うろ覚えだが、ラマチャンドランは幻肢痛の解消を目指す中で、この実験を思いついたように記憶している。
フランク・ウィルチェックが体験したのは、アバターロボットとか分身ロボットと呼ばれているものだろう。周囲360度を見渡すことができれば認知機能としての視覚は担保される。多少映像に問題があっても眼が悪い人と大差はなかろう。高性能マイクがあれば聴覚もカバーできる。すなわち欠けている情報は触覚・嗅覚・味覚に限られる。しかし、そこから我々が得ている情報は決して多くない。例えばクルマで移動している時には、外の風や温度は遮断されているし、匂いにも気づくことはない。
とすれば、脳が騙されるのは当然の帰結といえよう。あるいは、騙されているのではなくして本当に意識そのものが拡大している可能性もある。
つまり、ラマチャンドランの引用テキストが示しているのは、「体の中に自分が存在するという錯覚の可能性」を示唆(しさ)しているのだ。
「ワンネス」という言葉は気恥ずかしくて好きじゃないのだが、「全ては一つ」の世界に向かっているような気がする。