古本屋の殴り書き

書評と雑文

「反革命宣言」その四/『文化防衛論』三島由紀夫

三島由紀夫

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・「反革命宣言」その一
 ・「反革命宣言」その二
 ・「反革命宣言」その三
 ・「反革命宣言」その四
 ・「反革命宣言」その五
 ・反革命宣言補註 その一

必読書リスト その四

 四、なぜわれわれは共産主義に反対するか?
 第一にそれは、われわれの国体、すなわち文化・歴史・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇は、われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。
(中略)
 言論の自由を保証する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを持っていない。
 この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。従って、
 第二に、われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
 われわれは日本共産党民族主義的仮面、すなわち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保証する人間主義社会主義という幻影を破砕するであろう。この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どおりに行われるとしても)、成功すれば忽〔たちま〕ち一党独裁の怖るべき本質をあらわすことは明らかだからである。。(※〔振り仮名〕を付け加えた)《初出『論争ジャーナル』昭和44年2月号》

【『文化防衛論』三島由紀夫〈みしま・ゆきお〉(新潮社、1969年ちくま文庫、2006年)】

天皇は、われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである」――100回ほど書写する価値がある一行だ。日本の国体を見事なほど簡潔に表現している。

 三島の文章は生真面目(きまじめ)なほど合理的で、語彙の選択が適切で、わかりやすく明晰(めいせき)だ。それは筆跡にもよく表れている。彼の性情を一言でいえば、「真面目」に尽きる。私のような人間は三島ほど理を重んじることがない。

 日本を日本たらしめているものは何か、何をもって日本人というのか、これが国体論の本質である。そして、この一事が曖昧になっていることが現在の日本社会の混迷をもたらしているのである。

 真正面から共産主義を批判する三島であるが、その一方で彼は学生運動に共感し、期待の眼差しで見つめていた。大の大人たちが学生を忌避する時代にあって、三島は大学生とも積極的に討論を行った。“伝説の討論”と評された東大討論(1969年5月13日『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』)では、最も広い東京大学教養学部900番教室に1000人近い学生が雲集(うんしゅう)した。学生が集団でヘルメットを被(かぶ)り、ゲバ棒を振り回していた時代である。何かのきっかけで殺されることも覚悟していたに違いない。

「なお、事前に警視庁から警護の申し出があったが、三島はこれを断り、知人や楯の会の同行者もいらないと、腹巻に短刀と鉄扇を忍ばせ単身で敵陣に赴いた」(Wikipedia)。

 本書には、「ティーチ・イン」と題して、早稲田・一橋・茨城大学での討論が収録されている。先に書いた通り三島の性情は「真面目」の一言に尽きるのだが、性格は「フランク」(率直、開放的)である。茨城大学の討論の記事を見つけたので紹介しよう。

 講演の後、水戸・大工町の割烹「魚政」で三島を囲んで食事をした。謝金を手渡すと、三島はひっくり返したのし袋に「三島由紀夫」と書き記し、その謝金にポケットマネーを足して返した。「がんばれよ」の言葉とともに。「しびれる思いがしました」と語る小野瀬の口調に当時の興奮が蘇る。しかし、その2年後の1970年11月25日。三島は自衛隊に決起を呼びかけたあと自決する。その衝撃を小野瀬も影山も未だ忘れることはできない。

茨大の「あの日」 ー1968年11月16日 三島由紀夫が 茨大講堂で講演|NEWS|茨城大学

 共産党社会党は学生を道具として利用した。だが、共産主義の批判者である三島は誰よりも真摯(しんし)に学生と向かい合ったのだ。

「われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する」――これは決して飾った言葉ではなかった。