・『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介
・『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『無限との衝突 個人的自己を超えた人生』スザンヌ・シガール
・自我が消えた瞬間
・『神はいずこに キリスト教における悟りとその超越』バーナデット・ロバーツ
・『自己とは何か』バーナデット・ロバーツ
その日の帰り道、渓谷や丘の景色を眺めながら坂をくだっている途中で、私は自分の視点を内側に切り替えてみました。そして、そこで見たもののために、思わず道の途中で立ち止まってしまったのです。いつもの、場所を特定できない「私自身の中心」がなく、私の内側はからっぽでした。これを見た瞬間、静かな喜びが堰を切ったように押し寄せ、私はついに、自分が何をなくしていたかを知りました――それは、私の「自己」だったのです。
まるで大きな重荷が下ろされたように体が軽くなり、私はちゃんと足が地面についているかどうかを確認してしまったほどでした。しばらくしてから、「もはや、私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」という聖パウロの体験について考えていると、私の内はこんなにもからっぽであるのに、そこには誰も入ってこなかったという事実に気がつきました。そこで私は、キリストは喜びで、今ある空(くう)そのものなのだと思うことにしました。人として体験する残りのすべてが、彼なのだと。数日のあいだ、私はこの喜びとともに過ごし、ときにはすばらしい気分になりました。そしてこの静寂を守る水門に驚嘆しては、「あとどのくらいもつのだろう?」としばしば考えたものです。【『無自己の体験』バーナデット・ロバーツ:立花〈たちばな〉ありみ訳(ナチュラルスピリット、2021年/2014年『無我の体験』改題/雨宮一郎、志賀ミチ訳、紀伊國屋書店、1989年『自己喪失の体験』の新完訳版/原書、1982年)】
帯に「『自己喪失の体験』が、新完訳版として復刊」と書かれているのを見逃して、書誌情報を調べるのに難儀した。というのも私が読んだのは『無我の体験』であったため。
驚愕(きょうがく)の一書である。自我が消えた瞬間から、忍び寄る恐怖との格闘、そして完全な諸法無我に至る様相がそのまま描かれているのだ。もはや、経典の領域に達している。
その意味で、坪倉優介〈つぼくら・ゆうすけ〉やジル・ボルト・テイラーと読み比べれば、本書の宗教性の高さが理解できる。まずは「理解しよう」とすることなく、ありのままの体験として虚心坦懐に受け止める必要がある。そもそも理解できるような内容ではないし、理窟や合理性の範疇(はんちゅう)を軽々と超えているのだ。
私は本書を読むことで、ブッダやクリシュナムルティが今までとは異なる姿で見えるようになった。
序文に「ロウアーセルフ」(エゴ)、「ハイアーセルフ」(真実の自己)、「ノーセルフ」(自己なき生)とある。後期仏教(大乗)でも小我・大我が説かれているが、嚆矢(こうし)はヒンドゥー教のアートマンとブラフマンを一致させる梵我一如(ぼんがいちにょ)であり、「ハイアーセルフ」は近代になって神智学協会が広めたものだ。
また、本書に書いてあるのは「黙想の第一段階」であり、「神との合一をとげた魂の状態」とは異なると序文で断っている。
バーナデット・ロバーツはカトリックの家庭で育ち、15歳で修道女になった。4人の子供を育てた母親でもあった。自我消失の体験は50歳前後の頃だと思われる。
彼女は圧倒的な沈黙に襲われる。その状態が十日ほど続いた後に上記の場面が訪れるのである。
我々凡夫からすれば、「悟り、ゲットぉーーーっ!」と言いたくなるところなのだが実は違う。まず、変容を受け止める困難があり、更には凄まじい恐怖感が忍び寄る。変わるのは一瞬であるが、それ以降も変わり続ける旅が続くのだ。
預流果(よるか)系の悟り本を相撲に例えるならば、本書は関節技の応酬で中々決着がつかない総合格闘技さながらである。