・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
・『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
・『無自己の体験』バーナデット・ロバーツ
・『神はいずこに キリスト教における悟りとその超越』バーナデット・ロバーツ
・聖なる現実
・今ここにあること
・今この瞬間の生き生きとした性質
・「いつか」という欺瞞
・目覚めの一撃
今の瞬間のこの生き生きとした性質に目覚めていると、そこには開かれている感覚と驚嘆の感覚があります。まったくありふれたものごとに美を見いだします。すべては根本的に問題ないと感じます。そうは見えないとしてもです。あるということの気楽さを感じます。深く悲しんでいたり体の痛みを感じていたりしても、そこには生き生きとした感覚、とどまることなく流れている感覚、無根拠性の感覚があります。
今の瞬間のこの生き生きとした性質に無感覚でいるとき、そこには苦しみがあります。私はここで、痛み(それは感覚そのものです)や苦痛を感じる状況(戦争や破産や自然災害など)と、痛みや苦痛を感じる状況に【ついて】の思考やストーリーや意見とを区別しています。私がここで言っている苦しみというのは、基本的には、【これ】・【ここ】・【今】は十分ではない、生は今あるとおりであっては【いけない】、「私」はこのままではだめだ、「それ」はそのままではだめだ、自分が求めているものはどこか「別の場所」、過去や未来、〈ここ・今〉ではないどこか、あるいは別のときにある、という思考・ストーリー・信念・観念のことです。この何かが欠けているという観念の根っこに必ずあるのは、「私」というのは、いつか滅んでしまう傷つきやすい心身の内側に閉じ込められた状態で異質で恐ろしい外側の世界を見ながら、生き残るため、成功するため、どこかにたどり着いて特別な人間になるために努力している個別の断片なのだという思考・ストーリー・信念・観念です。内側に閉じ込められながら分離しているというこの観点からは、つねに何かが欠けているように感じられます。【『つかめないもの』ジョーン・トリフソン:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年/原書、2012年)】
続きを。
「生き生きとした感覚、とどまることなく流れている感覚、無根拠性の感覚」――これこそが「法」なのだろう。有り難い現実の不思議を見据えた瞬間に、ありがたいという感謝の念が沸々(ふつふつ)と湧いてくるのだろう。
次の段落は凄い。一切皆苦(いっさいかいく)による不満が渇愛(かつあい)を形成するメカニズムを解き明かしている。ジョーン・トリフソンの縁起論と考えてよかろう。
つまり、「今ここ」にしか幸福も生きがいも奇蹟も存在しないのだ。そして、「今ここ」に対する不満こそが不幸の原因であり、不幸とは「今ここ」に感じる不足感なのだ。
しかも、我々が思う幸不幸は大概、他人の視線を想定している。結局、「どう見られるか」を競っているだけなのだろう。昨今は幸不幸もレースになった感がある。所謂(いわゆる)、ラットレースというやつだ。
「比較があるところには必ず恐怖がある」(『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ)。そして、「今」を見失い、「ここ」から離れてしまう。心を占めるのは、「あの人」「この人」であり、「あの時」「その時」であり、心は風に弄(もてあそ)ばれる風船のようにさまよう。
「我思う、ゆえに我あり」ではない。「我あり、ただあり」である。
