・弾みをつけない
・感覚と感情
・『ヨガによる病気の治し方 病気を活用した自己改造法』沖正弘
・『ヨガの喜び』沖正弘
感情は、条件反応の分野を多く含むもので、感覚してからのちにはたらきだすこころのはたらきである。体的エネルギーの使用方向が習慣づけられるように、心的エネルギーの使用方向も条件づけられる。個性とは、感じ方やエネルギーの集め方および処理方向に独特なタイプ(型)があるということだが、先天的(基本的こころの)特質と後天的(作られたこころの)習慣性をひとつにしたものである。
感覚は純然たる生理的なものだが、感情は生理的刺激による情動と、心理的刺激による情動がひとつになったものである。
空腹になると腹をたてやすくなり、小便がたまるとイライラしだし、酸素が不足すると不快・憂うつになるが、これはみな生理的刺激によるものである。不満が内向するとどなりたくなり、可能性を信ずると元気がで、自信を失うと無力化するが、これらが心理的刺激によるものである。感情は条件反射化するから、各人がその身についたはたらきの違いによって各様の現わし方をする。立腹してどなる人・だまりこむ人・なぐる人・考えこむ人などがあるようにである。
感覚・感情ともにこころのエネルギーの刺激に対する自然的な反応のあらわれであるから、このエネルギーをおさえることも、なくする(ママ)こともできないのであり、どういう処理の仕方が身についているかによって、その現わし方に相違が生じてくる。この違いが人格で、身についている内容がよければよい情動をするし、悪ければ異常な情動をする。本能的欲望も訓練によってその要求のだし方を正すことができるが、感情や感覚も教育によって現わし方を正しくすることができる。この条件反射を形成するものが、遺伝プラス胎教・しつけ・教育・体験などである。ヨガは意識的な学習と訓練によって、思考・感情・感覚・欲望の現わし方の内容を正しくしようとする目的のものである。
動物でも、生きる基本的欲求以外は、教えられないと覚えないのであって、ネコだからネズミをとるだろう、トラだから人間をおそうだろうと考えるのは誤りだ。動物でもサカナでも、教えるといろいろな芸を行なうようになるが、これは純然たる条件反射で思考に基づいたものではない。もし、人間が思考によってコントロールされない感情や欲望のだし方をするならば動物と同じである。人間にしても、人間的訓練を受けないと、人間心の持ち主にはなれないのであって、インドでオオカミに育てられた子どもは、ちょうどオオカミと同じであったそうだ。しかし、人間だけは、生理的に早産しており、教えられればそれを覚え、覚えたことをとおして、思ったり、考えたりするということができるから、しつけることの重大性・教えることの必要性がここにあるのだ。(中略)
感情や感覚の表わし方もこれらの身についたものの全部が支配するのである。前にも例示したが、梅干しと聞いただけで、スッパイと感ずることができるのは、梅干しの味を体験している者だけである。だから、違った環境に育った者同志(ママ)や、異なった体験の者同志(ママ)は、おのおのが無意識に異なった感じ方や考え方をしてしまうので、対立しやすいし、気も合いにくいのである。
私たちは無意識に自己流の考え方、感じ方および情動をして、他と対立しやすいから、生きるのに一番たいせつなこころであるところの“和合心”を身につけることが第一である。このためにはまず身についたこころを変えるか、または放下してしまうことが必要である。変える方法は、体験・学習・自己暗示・信仰などであり、放下(無に)する修練法が瞑想行法である。放下も変更もできないときには相手のこころになって考えるのである。【『ヨガによる健康の秘訣 足の裏から頭の先までの完全健康』沖正弘〈おき・まさひろ〉(白揚社、1964年)】
必読書にしてもいいのだが、如何せん内容が古く間違いも多い。また、食餌や微量栄養素に関する大量の情報を確認するのが難しい。
例えば、『野生児の記録1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記』J・A・L・シング(福村出版、1977年)はとうの昔に否定されている(Wikipedia)。
「独特なタイプ(型)」とはスタイルである。
・歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊
・文体とスタイル/『書く 言葉・文字・書』石川九楊
快不快は生得的な感覚だ。気取って言えばアプリオリ(先験的)なものだ。そこに親の価値観(=環境からの圧力)が加わって、ある特定の方向へ誘(いざな)われる。子は親が喜ぶ反応を積極的に示そうとする。大雑把に言ってしまえば、3歳までのシミュレーションを通して人格は形成されるのだろう。特に【何気ない】言葉や表情・態度が子の運命を決める。特に、「最初の否定」が性格を決定づけると私は考える。その時、どう応じたかで心の性質が形作られる。
感覚・感情をエネルギーとして捉える視点が斬新だ。妙な物語ではなく物理的に考えることで対処法や解決法が見えてくる。エネルギーが溜まっているのであれば解放すればいいのだ。そこで、よりよい方向づけをするのが本来の教育なのだろう。
似た者同士は馬が合うものの、切磋琢磨し成長し合えるような関係性ではない。やはり、自分とは異なるタイプの人をしっかりと確保することが大切であろう。年齢差や性別を超えた友情が豊かな人ほど幸せだ。
一方で感覚と感情ほど当てにならないものもない。社会やコミュニティを支えているのは理性(≒法)である。自分勝手な快不快を押し通そうとするとコミュニケーションは閉ざされる。
昨今増えつつある発達障害はエネルギーの抑制や制御が難しい症状を示唆している。外側に向かえば多動性や癇癪(かんしゃく)となり、内側に沈潜すれば自閉系となって現れるのだろう。
放下(ほうげ)は禅語である。投げ捨てるのではない。ただ、つかんでいる手を放せばよいのだ。ところがどっこい、それが難しい。我々は自分の信念にしがみついて決して放すことがない。
「話す」は「放す」に通じる。誰かと話すことで、凝り固まった信念から自由になることはある。話すことができない人は死ぬまで不自由のままだ。
