令和の世に大学の准教授が朝田理論を迫真顔でお出ししてくるの、流石にキツすぎるのでやめてほしい。 https://t.co/vfKXfDOIUT pic.twitter.com/REPLDCG3OX
— やまもとやま(美少女) (@mt_yamamoto_) February 22, 2025
まあフェミニスト周りの言う「性的消費」がほぼほぼ同和問題の焼き直しであることを自白してくれてありがとうという気持ちは若干ある。
— やまもとやま(美少女) (@mt_yamamoto_) February 22, 2025
お?反論したら差別とかいいだしたぞ。これが教授か。
— もへもへ (@gerogeroR) February 22, 2025
もう「反論すら差別許されない。暴力だ」とかいいだしたぞ。 https://t.co/VrjZ7zKgAR
松沢呉一は朝田理論を以下のように批判している。
既存の差別反対運動の中に、当事者が唯一絶対の判定者だって考え方が非常に根強くあります。もう十何年前に『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)っていう本が出て、著者の藤田敬一さんは二つの思い込みに対して疑問を呈してました。一つは、【ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない】、もう一つが、【日常部落に生起する部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である】(同書57頁)というものです。これに対して藤田さんが異議を唱えたわけです。『週刊金曜日』の「性と人権」の中でも、「差別された者にしか痛みはわからない」といった言葉はずいぶん出てますよね。これは差別された者は間違いをしないっていう前提で成立する話じゃないですか。これに対して、抗議された側は、反論のしようがないわけです。つまり、議論を拒絶することでしかないんです。この発想は、差別されたと思った人は「被差別者」というグループに属し、彼らが差別した側と見なした人は「差別者」というグループに属し、差別という事象を判定する権限は「被差別者」のグループにしかないということですから、実は差別の構造の逆転なんです。どのグループに属するかの属性だけで、その発言が決定されてしまうんですから。
論理学的には朝田理論は対人論証と呼ばれる詭弁の一形態である。何故なら朝田理論は、言った人間の属性(この場合は部落民か否か)を持って命題の正誤を判断しているからであり、もしこれが正しいとすれば全く同じ言動であっても言っている人によって正しい間違いが変化してしまうことになってしまうことになる。
