・文章がおかしい
しかし、これまでの食物史の最大の関心は、食料の消費の部分にのみ集中し、なにをどう食べたか、という課題に終始した観がある。ところが食料の消費は、その生産に裏付けられねばならず、生産の過程に強く関与する共同体や国家の問題と不可分ではない。むしろ生産に共同体や国家の意思が働き、実際に権力が関与するからこそ、生産条件が確保され生産力の向上が期待されたのである。
すなわち権力の生産への関与が、食料の社会的分配を強制的に行ないうる根拠となり、こうした歴史の帰結として、共同体もしくは国家内に階級が成立するのだ、と考えべきだろう。したがって歴史学としては、従来の食物史の成果に学んだうえで、食料の生産や配分の問題までも視野に入れる必要がある。【『日本人はなにを食べてきたか』原田信男〈はらだ・のぶお〉(角川ソフィア文庫、2010年/NHKブックス、1995年『木の実とハンバーガー 日本食生活史の試み』を大幅に圧縮し補筆)】
まず基本的なことだが、「食料」ではなく「食糧」と表記すべきだろう。で、社会的分配はわかる。私が引っ掛かったのは「権力の生産への関与」である。発想が左翼っぽくはないか?
「生産の過程に強く関与する共同体や国家の問題と不可分ではない」――それはいつから? 新石器時代の農業革命が富の蓄積を可能にし、階級が生まれたのは確かだとしても、現代に生きる我々が考える階級と同じかどうかは微妙だ。それゆえ断定するのは避けた方がよいと私は考える。
縄文時代が約1万年近くも続いたのに対し、弥生時代は紀元前3世紀から期限3-4世紀のことで、長く見積もっても500年ほどの期間にしかすぎない。しかし、その間の社会の変化には目を見張るものがあり、まさに加速度的に人間の生活環境が変えられていったのである。
それは現代の学者が勝手に時代区分を設けただけであって、「続いた」とか「期間にしかすぎない」という評価そのものがおかしい。原田は権力者が時代を作っているという妄想を抱いているのではないか?
というわけで読むのをやめた。早々にやめるのが正しい判断だ。
