・『坐(すわ)る力』齋藤孝
・『「坐」の文化論』山折哲雄
・『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著
・『岡田式 静坐の道』柳田誠二郎
・鳩尾を落とす
・『「密息」で身体が変わる』中村明一
しかしその後、私の体の具合はますます険悪になり、独り苦慮していた折、先の友人が「君、もう一度先生にお会いしてみろ」ということで、ある静坐会で再び先生の教えを乞うこととなった。先生は、先生のすぐ前に坐った私を見、私の胸倉をとって私が前にのめるのではないかと思うほど引き下げられた。ただそれだけで、先生から一語の教えを聞くこともなかった。しかし、これが私の一生の一大転機となったのである。
先生の教えを受けるに従って、私は二つの考え方の変化を知った。一つは坐の姿勢の誤りを知り、他の一つは坐りながらいつも悟りというものを求めつつあったことの誤りを知ったのである。
第一の姿勢の誤りということは、真っすぐに坐りながら「鳩尾」(みずおち)を落とすということを知らなかったことである。この簡単なことに気がつかず、高等学校の学生のスタイルそのままに肩をいからし、意気軒昂の姿勢そのままで坐っていたのである。岡田先生は私に対し一言も言うことなく、この姿勢を正された。
さらにまた、岡田先生は静かに息を吐きながら下腹に力を入れよということを言われただけで、他に何等の指示をされることがなかった。私の公案から公案へと終始なにものかを求めつつあった考え方を、根本から変更せしめたのである。
以上の二つの方式の変化が、私に何をもたらしたか。それは1年間に体重が4貫目(16kg)も増加し、元気一杯の日常生活を楽しましむると同時に修行に対する新たなる目を開かしめたのである。【『岡田式 静坐のすすめ』柳田誠二郎〈やなぎだ・せいじろう〉(地湧社、1983年)】
柳田が岡田虎二郎〈おかだ・とらじろう〉と出会ったのは大正5年のこと。翌6年に東京帝国大学を卒業した。その後、日銀に入る。終戦の2ヶ月後に日銀副総裁となったが、翌年公職追放された。初代日本航空の社長も務めた人物である(Wikipedia)。
尚、本書には書かれていないが、岡田の下(もと)へ連れて行った友人は亀井貫一郎〈かめい・かんいちろう〉とのこと。
100ページほどの小品である。正直に申し上げると書籍としての出来栄えは決してよくない。しかしながら、柳田の言葉を通してありありと岡田虎二郎の姿が浮かび上がってくる。柳田の中では岡田が今も生きているのだろう。その誠実が胸を打つ。
尚、鳩尾の読みに「みずおち」があるのは知っていたが、以下の由来を初めて知った。
「みぞおち」は「飲んだ水が落ちるところ」という意味の「水落ち(みずおち)」が変化したもの
なおまた、岡田先生は「坐っている時は、ただ静かに息を吐きながらお腹に力を入れる。ただそれだけの修行である」と言われた。先生は「あえて求むるなかれ、無為の国に静坐せよ」とも言われ、「無念無想を求むるとか、またなにか計らいを工夫するとか一切してはならない。義なきを義とする」ということで、絶対他力の教えであると言われた。これが私にはまことに有り難い教えで、悟りを開こうということを捨てて、悟りの開かれることを待つということ、同時に必ず悟りが開かれるということで、静坐は大安楽の門なりということであった。
岡田先生は観普賢経の偈にある「一切業障の海、皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば、端座して実相を思え、衆罪霜露の如く、慧日〔えにち〕能〔よく〕消除す」という文句を示され、これが静坐の根本義であることを教示された。(※〔振り仮名〕を振った)
鳩尾(みぞおち)を落とすのは上半身の力を抜くためだろう。とすると中村天風〈なかむら・てんぷう〉のクンバハカとよく似ている。因みに岡田が1872年生まれで、中村が1876年生まれである。
一世を風靡(ふうび)した静坐であったが、岡田が49歳で逝去すると早逝に疑問を抱き、去って行った人々も多かったようだ。無為な人生を送る人々に限って長命に重きを置いているような気がする。
私は人生にも短距離、中距離、長距離の違いがあると考えている。いかなる距離にせよ、ドラマを作った人は偉大だ。無味乾燥で無意味な人生を送る有象無象は掃いて捨てるほど存在する。そもそも、お前らなんぞに他人の人生を云々(うんぬん)する資格があるのかと問いたい。
