・『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
・『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
・『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
・『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・気づきはあらゆる現象に先立つ
・聴くという技法
・我々は概念を通して聴いている
・弓の達人は弦音だけで見抜く/『弓と禅』中西政次
・『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン
・『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー
・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『われ在り I AM』ジャン・クライン
・『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
観察の対象をつかみ、そのなかで安心を探し求めるのが自我の性質だ。ただ見るかわりに私たちは解釈し、分析し、判断し、気持ちや思考のなかで自分を見失う。知覚によって何かを探そうとしているとき、そこには目標に到達しようとする姿勢があり、私たちは何かになろうとするプロセスに捕えられている。
今あるものを見るかわりに、自分が見たいもの、自分の投影するものしか私たちは見ない。自我はいつでも自分に喜びをもたらすものを選び、苦痛をもたらすものを退ける。
私たちは概念的な精神(抽象作用)に支配されすぎていて、直接見ることをほとんどせずに生きている。知覚はつねに今この瞬間にあるが、私たちはその知覚に留まろうとはせず、記憶である観念にすぐ飛びつく。本当に花を見てその豊かさを開かせ、驚嘆の感覚を感じるかわりに、急いで名前を付けて分類する。こうして五感は衰え、私たちは自分を全体性から切り離し、自分だけの孤立した概念世界のなかで生きる。【『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2017年/原書、2014年)】
前回の記事の続きのテキストを紹介する。
最近知ったブログ「satomi30sの日記」では傾聴について様々な考察がなされていて大いに啓発された。
夫は妻の話に生返事で答え、子供が「ピーマンは嫌いだ!」と言っても母親は耳を貸すことがない。児童は味覚が敏感なためピーマンの毒性を感じているにも関わらず(基本的には苦み=毒)。大人がコーヒーやビールなどの苦みを好むのは解毒作用が働くためと考えてよい。私自身、小学生の頃から「苦み走ったいい男」を目指してきた。指で目尻を釣り上げて「天知茂〈あまち・しげる〉です」と顔真似を始めたのは小4の秋だった。
脳は妄想装置である。言葉をこねくり回して、眼の前に存在しない過去や未来に囚(とら)われて、想像力を駆使して勝手な因果関係を捏造(ねつぞう)するのだ。
「意味を読み解く」作業にすっかり馴(な)らされた脳は、ありのままを見たり聴いたりすることができない。その意味から申せば、脳はフィルターとして現実世界を歪(ゆが)めているのである。
人間には「顔で笑って心で泣いて」という複雑性がある。人情の機微は見える人には見えるし、聴こえる人には聴こえる。眼は閉じることができるが、耳は閉じることができない。その一点を踏まえても、やはり「聴く」ことが大事だ。耳は常に世界に向かって開いている。
一流の武術家が感じる気配とは、「音以前の音」と言ってもよかろう。音がなくても皮膚感覚で気(き)を感じ取ることができるのだ。
君たちは、寺院の鐘が鳴る音に注意を払ったことがありますか。そこで、君たちは何を聴くのでしょう。音でしょうか。音と音の間の静寂でしょうか。もしも静寂がなかったなら、音はあるのでしょうか。そして、もしも静寂を聴いたなら、音はもっと浸透し、違った質にはならないでしょうか。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年/原書、1964年】
クリシュナムルティは最も厳しく「見る」「聴く」行為を問い直した人である。私はルワンダ大虐殺を知り、中年の危機に陥った。荒れ狂う憤激と無力感に苛まれ、のた打ち回っている時にクリシュナムルティと出会った。
「静寂を聴く」ためには、自分の心に静寂が必要だろう。つまり、傾聴するためには静謐(せいひつ)が欠かせないのだ。何か助言してやろうとか、何か言い返してやろうなどと思う心が少しでもあれば傾聴は成り立たない。
もしも一期一会が真実であるならば、あらゆる言葉は遺言として扱うべきなのかもしれない。
