古本屋の殴り書き

書評と雑文

弓の達人は弦音だけで見抜く/『弓と禅』中西政次

『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル

 ・インナーボディへの手掛かりとして背骨を押し立てる
 ・四方八方に気を通(は)ける
 ・弓の達人は弦音だけで見抜く

『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム
お腹から悟る

 私が弓を初めて8ヵ月を過ぎた或る日のこと、先生はすでに大阪から教福寺に到着せられ、玄関の間でお茶を飲んでおられた。私は稽古の始まる前に少し自習をしておこうと思い、玄関の傍においてあった巻藁に向かって懸命の稽古をしてた。ちょうど二射引き終わった時、玄関の障子が静かに開いて、
「F君、もうよいから入ってお茶を飲み給え」
と言われた。私はその言葉に従った。その時、その事が何を意味するか理解できなかった。後にわかったことだが、この時私は、練気に進んだのである。この時、先生は、私の射を全然見ておられなかった。ただ弦音だけ聞いておられたはずである。しかし私の射境が或る一線を越えたことを見抜かれたのである。練気という階級は内面的には“無”を体認し、射において“無我の離れ”即ち、“無発の発”を行ずることができる段階である。矢が自然に弦を離れるか、不自然に離れるかによって弦音に格段の相違があり、また矢勢に大きな違いがある。練気以上の射と、練気以下の射とでは離れが全く違うのである。
 F氏の話を私は興味深く聞くとともに、その猛烈な求道心に敬服した。

【『弓と禅』中西政次〈なかにし・まさつぐ〉(春秋社、1969年/新版、2008年)】

我々は概念を通して聴いている」関連テキスト。

 弓の達人は弦音(つるね)だけで技量の進歩を見抜くというのである。空恐ろしさを感じるのは私だけではないだろう。音にはそれほどまでに豊かな情報量が含まれているということなのだろう。むしろ達人からすれば、「目はおろか、耳まで節穴なのか? それで本当に『生きてる』と言えるのか?」と疑問の念を差し向けられることだろう。阿波研造〈あわ・けんぞう〉の「的を狙わずに自分自身を狙いなさい」との一言が胸に迫ってくる(『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル述)。

 無影心月流(むようしんげつりゅう)においては、練気-開気-統一と段階が進む。これを見守る師匠の眼が実に鋭い。本末転倒だが、禅よりも弓術の方が上のように見えてしまうほどだ。

 私は若い時分から折に触れて「鋭い」と評価されることがままあったが次元が全く違うのだ。弓を通して心境の変化までお見通しなのだ。ここにはスポーツ競技と化した武道とは異なる修行の道が示されている。

 例えば一流の自動車整備士であれば、エンジン音からたちどころにクルマの不調を見抜く。若い頃にオートバイのレーサーを目指していた人物が、「エンジンオイルが古くなると微妙な重みを感じる」と語ったのを聞いて、心の底から驚いたことがある。私はいまだに全くわからない。

「変化に気づく」ことも大切なのだが、「何がどう変わったか」まで知ると、構造や機能の本質まで見えてくるような気がする。

 性格は声の響きに表れる。思考は言葉の選択とスピードに表れる。目には見えない様々な要素が声となって発した時、「一射の音で見抜く」達人に迫ることは果たして可能だろうか?

 たぶん可能なのだろう。それを示すために達人が存在するのだ。神と崇(あが)め奉ってしまえば、自分と関係のない向こう側の世界になってしまう。

 語り手の全存在を映し出す鏡のような心境で耳を傾ける必要がある。