・『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『必生(ひっせい) 闘う仏教』佐々井秀嶺
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・『偶然のチカラ』植島啓司
・『ブッダの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本』くさなぎ龍瞬
・『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
・心の使い方
・『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
・『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
世間では、「心」を曖昧にとらえています。心理学でも、生物学でも、その他の分野でも、「心」そのものを明快に定義した言葉は、ほとんど見当たりません。
仏教では、生命の本質を、【心・体・関係性】――の三つでとらえます。
このうち心とは、ひとことでいえば“反応”のこと。
この反応は、五つの指標に分けられます――つまり、【(1)感覚、(2)感情、(3)思考、(4)意欲、(5)意識】、です。
このうち“意識”は、心の底を流れ続けるエネルギーです。まだ感情や思考などの反応が生まれる前の“反応の素(もと)”みたいなもの。ニュートラルで、まだ怒りや妄想といった「煩悩」になる前の、きれいな状態の流れです。
この【“意識”】が外の刺激に触れたときに、感覚・感情・思考・意欲という四つの反応を作り出します。私たちの日頃の悩みは、この四つのいずれかに、実は属します。【『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬〈くさなぎ・りゅうしゅん〉(KADOKAWA、2016年)以下同】
これが「五蘊」(ごうん)である。蘊の字は滅多にお目に掛からないが、蘊蓄(うんちく)の「うん」だ。つまり、「つむ。たくわえる」(漢字ペディア)の意で、業(ごう)を示唆している。色受想行識は知っていたが初めて腑に落ちた。
柳の下の二匹目のドジョウを狙った印象が強く、残念ながら『反応しない練習』を超える内容にはなっていない。
「感覚は無常――実体のない、うつろいゆく現象――である。
感情という心の働きも、思考も、意欲も、意識もまた無常である。
無常であるものは“わたし”ではない、と観察して、執(とら)われを離れる。
執われを離れた心は、安らぎと清浄と自由の中にある」――サンユッタ・ニカーヤ
諸法無我は諸法非我ともいう。「我に非ず」だ。個人的には「我」という恒常性を認めると、空観(くうがん)に至らないような気がする。
「人生は“心の使い方”によって決まる。
すべては、心から生まれ、心の影響を受け、心によって作られる。
心に振り回されて終わるな。心の主(あるじ≒心を巧みに操れる者)となりなさい」――ダンマパダ/ブッダ最後の旅・長部経典
様々なきっかけ(縁)によって「反応する心」があり、その「反応に気づいている視点」がある。もっとわかりやすく言おう。我々は「心の反応」を実況中継することができる。つまり、「反応する心」から少し離れて観察することが可能なのだ。「心の主」とはこのメタ認知を指す。
「外に出るとき、家に帰るとき、前後を見たり、体を動かしたり、服を着たり、食べ物を口に入れるとき、用を足すとき、歩くとき、座るとき、その他、目が覚めている間は、サティをよく働かせていなさい」
――ブッダ最後の旅にて・弟子たちに 長部経典
サティとは「気づき」である。メタ認知とは「気づいている視点」だ。ブッダは心身の状態に「気づけ」と教えている。
「サティを絶やすな。でなければ心は浮き沈みを繰り返し、散り散りに乱れた状態のままであろう」
――ウダーナヴァルガ
ここでもう一度冒頭のテキストを読み直してみよう。感覚は快・不快に分かれる。快・不快は好悪(こうお)という感情に彩られる。脳は感情を正当化すべく論理を紡ぎ出す(=捏造〈ねつぞう〉する)。そこまで考えて初めて、「判断も妄想」(『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬)であることが理解できるのだ。結局のところ快・不快を正当化する目的で後づけした理窟に過ぎない。
するってえと、サティに判断が入り込む余地はない。悟りが判断と無縁であるならば、それは「あらゆる価値観からの自由」を意味する。
サティとは現在(今ここ)を悟ることなのだろう。