古本屋の殴り書き

書評と雑文

忙(せわ)しくなく自分を上げたり下げたりする文章にうんざり/『京都ぎらい』井上章一

 人のふれないことを、この書き手はえがきだしてくれる。そう言って、私のことをほめてくれる読書人も、世の中にはちらほらいる。もちろん、灰汁(あく)の強さをいやがり、うけつけないと人も、少なくない。
 私としては、後者を気にせず、前者のために書きつづけるしかないだろう。これからも、少数のひいき筋を、この言い方もおおげさだが、大切にしていきたい。京都を論じる今回も、これまでのよくある構図には、あゆみよらないつもりである。
 といっても、私が他の論客とはちがう、ゆがんだまなざしをもっているわけではない。誰もが気づかなかった京都の深層を、ほりおこしたりもしなかった。私が京都で見聞きしたような話を、歴史への言及もふくめ、ならべているだけである。


【『京都ぎらい』井上章一〈いのうえ・しょういち〉(朝日新書、2015年)以下同】

 タイトル通りである。とにかく薄気味悪い。上げたり下げたりしながらも、どこかナルシシズムが垣間見える。平仮名の使い方も気取っていて、如何にも京都人らしい。

 私は京都市に生まれそだったが、

 これね、私のような田舎者だと「生まれそうだった」の誤植に見えてしまう。しかも何度も出てくるのだ。ちょっと時間を置いて「生まれ育った」だと気づいた。

 ますます、京都が嫌いになったよ。