人のふれないことを、この書き手はえがきだしてくれる。そう言って、私のことをほめてくれる読書人も、世の中にはちらほらいる。もちろん、灰汁(あく)の強さをいやがり、うけつけないと人も、少なくない。
私としては、後者を気にせず、前者のために書きつづけるしかないだろう。これからも、少数のひいき筋を、この言い方もおおげさだが、大切にしていきたい。京都を論じる今回も、これまでのよくある構図には、あゆみよらないつもりである。
といっても、私が他の論客とはちがう、ゆがんだまなざしをもっているわけではない。誰もが気づかなかった京都の深層を、ほりおこしたりもしなかった。私が京都で見聞きしたような話を、歴史への言及もふくめ、ならべているだけである。
タイトル通りである。とにかく薄気味悪い。上げたり下げたりしながらも、どこかナルシシズムが垣間見える。平仮名の使い方も気取っていて、如何にも京都人らしい。
私は京都市に生まれそだったが、
これね、私のような田舎者だと「生まれそうだった」の誤植に見えてしまう。しかも何度も出てくるのだ。ちょっと時間を置いて「生まれ育った」だと気づいた。
ますます、京都が嫌いになったよ。