・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
・「反革命宣言」その一
・「反革命宣言」その二
・「反革命宣言」その三
・「反革命宣言」その四
・「反革命宣言」その五
五、まず言論闘争、経済闘争、政治闘争という方式はかれらの常套手段であり、「話し合い」の提示は、すでにかれらの戦術にはまり込むことである。戦いはただ1回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。生死を賭けた戦いのあとに、判定を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である。われわれの反革命は、水際に敵を邀撃〔ようげき〕することであり、その水際は、日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千万人といえども我往かんの気概を以て、革命大衆の醜虜〔しゅうりょ〕に当たらなければならぬ。民衆の罵詈讒謗〔ばりざんぼう〕、嘲弄〔ちょうろう〕、挑発、をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当たらなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。(※〔振り仮名〕を付け加えた)《初出『論争ジャーナル』昭和44年2月号》
創価学会が行う布教法の折伏(しゃくぶく)は仏教の摂折二門(摂受・折伏)によるが、戦後の運動論は完全に共産党のパクりで、「細胞を増やす」戦術であった。昔から、「闘争」「文化」「平和」というキーワードを好むところも酷似している。更に、革命(人間革命)を唱えていることも見逃せない。創共協定(1974年)を仲介した作家の松本清張が池田の発言を記している。
池田「牢に入っていた人間は強い。初代牧口会長がそうで、反権力で闘った。その次の戸田城聖会長から右寄りになった。自分がその軌道を左寄りに修正した。人間は牢屋に入らないとダメだ。その点、宮本先生を尊敬する。これからは兄弟のつき合いをしよう」
公明党は1964年(昭和39年)に結党されているが、当時の綱領には「人間性社会主義」が明記されていた(『池田大作の「人間性社会主義」』村岡到、ロゴス、2019年)。
つまり、既にマンモス教団であった創価学会ですら左旋回するほど社会全体が左側に傾斜していたのである。そこには当然、大東亜戦争という悲劇からの反動もあったことだろう。私は道産子だが上京するまで「皇統への敬意」に触れたことがなかった。
「われわれは日本の美の伝統を体現する者である」――この一言に三島の真骨頂がある。共産主義者の如く謀略やスパイ工作によることなく、正面から政治を問うているのである。彼は談合や寝技と全く無縁であった。
「反革命宣言」は本書巻頭のたった4ページの文章であるが、これをもって「必読書」としておく。若き国士あらば、勇んで書写し、胸に刻み、肝に銘じ、日々の生活において国粋の威風を吹かしめよ。