古本屋の殴り書き

書評と雑文

本書から映画『マトリックス』が生まれた/『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール

『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 ・本書から映画『マトリックス』が生まれた

『マトリックス』三部作:ウォシャウスキー兄弟監督(1999年)
『メディア論 人間の拡張の諸相』マーシャル・マクルーハン

 今、抽象作用とはもはや地図、複製、鏡あるいは概念による抽象作用ではない。シミュレーションとは領土、照合すべき存在、ある実態のシミュレーションですらない。シミュレーションとは起源(仏語略)も現実性(仏語略)もない実在(仏語略)のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアル(仏語略)だ。領土が地図に先行するのでも、従うのでもない。今後、地図こそ領土に先行する――【シミュラークル】の先行――地図そのものが領土を生み出すのであり、仮に、あえて先の(※ボルヘスの)おとぎ話の続きを語るなら、いま広大な地図の上でゆっくりと腐敗しつづける残骸、それが領土なのだ。帝国の砂漠にあらずわれわれ自身の砂漠に点在する遺物とは、地図ではなく実在だ。【実在の砂漠それ自体だ】。
 だが、たとえ話を逆にしても、おとぎ話が役立つわけではない。多分、帝国のアレゴリーだけが残るだろう。なぜなら、同じ帝国主義的なやり方で、いまシミュラークルをもくろむ者は、実在を、あらゆる実在を、彼らのシミュレーションモデルと一致させようとしているからだ。だがここで問題なのは地図でも、領土でもない。何かが消滅した。抽象作用の魅力とも呼ぶべき、あるものと、もうひとうつのものとの崇高な差異が消滅した。差異こそ地図の詩(うた)であり、領土の魅力だ。そして概念の魔力であり実在の魅力だからだ。地図と領土を観念的に共存させようとする気違いじみた地図師たちの計画の中で、ひらめくと同時に消え去る、表現に必要なあの空想(仏語略)、それがシミュレーションによって消えた――だからその捜査は核分裂的であり発生的ではあるが、およそ鏡のように映し出したり、論理的に推論するようなものではない。あらゆる形而上学的なことがらが消え失せる。存在と外観を映す鏡も、実在とその概念を映す鏡さえない。もはや空想的共存もない。つまり発生的ミニアチュール化こそシミュレーションの次元だ。そこで実在はミニアチュールの細胞やマトリックス、そしてデータの記憶や命令のモデルから見られる――それを基にして無限にくり返し実在は複製され売るのだ。その実在は合理的である必要がない。というのはどんな権威もそれが理想的なものか、否定すべきものなのか判断し得ないからだ。したがってそれはオペレーションでしかない。ひとかけらの空想もまとわない以上、それはもはや実在でもない。それはハイパーリアルだ。大気もないハイパーな空間で四方に拡がりつつある組み合わせ自在なもであるが合わさってできた産物だ。

【『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール:竹原あき子訳(法政大学出版局、2008年)】

 何を言っているのかさっぱりわからない。ボードリヤール本は「言葉の曼荼羅」っぽい印象がある。本気で意味を考えると狂気が頭をもたげる。

 それにしても本書から映画『マトリックス』が生まれた事実の方が私にとっては驚きである。

 今知ったのだが、「堤清二ボードリヤールの著作『消費社会の神話と構造』などに触発されて1980年に無印良品を始めた」(Wikipedia)。

 仏典を映画化する人物はいないのだろうか?