・正常者もすべて分裂病症状を体験する
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
・『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
・『食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流』大沢博
・『ビタミンB‐3の効果 精神分裂病と栄養療法』エイブラム・ホッファー
オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者もすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。
私は、回復期において1週に1~2回、数十分から2~3時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしていると――決して愉快な時間ではないが――いつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスに【ひび】の走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感(英語略)の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過される場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴dめお、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら定年までつめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かもしれない。
私は一方では、分裂病になる可能性は全人類が持っているであろうと仮定し、他方では、その思い失調形態が他の病いよりも分裂病になりやすい「分裂病親和者」(以下、S親和者とよぶ)を考える。軽い失調状態ならば軽うつ状態をはじめ、心気症などいろいろありうると思う。
ジュリアン・ジェインズは歴史を持つ以前の人類は全員が統合失調症(=精神分裂病)であったと主張している。
リュムケの指摘は腑に落ちる。私の場合、被害妄想よりは殺意に取り憑かれることがしばしばある。元々少しばかり正義感が強いこともあって、不正や弱い者いじめを見ると黙っていられない性分なのだ。40代までは実際に殴ったり蹴ったりしていたし、怒鳴ることは日常茶飯事である。
例えば岸田政権で増税を目論む財務官僚である。「上の奴等を数人、誰か殺してくれないかな」などと思ってしまう。それを本気で思ってしまうところに私の病状があるのだ。
特にルワンダ大虐殺を知った時は襲い来る殺意に苛まれ続けた。実際にアフリカまで足を運んで片っ端からフツ族を殺したら、どんなに気分がすっきりすることだろう、と考え続けた。異常である(笑)。
道端に落ちているゴミを見ては、「こういう奴は腕を切り落としてしまえばいいのに」と思ってしまう。
人それぞれが何らかの異常を抱えていると考えてよかろう。その異常性と折り合いをつけることを社会性というのだ。
脳は左右に分裂している。だから分裂病(統合失調症)は自然な状態といってもよい。左右の脳は脳梁でつながる。
そして脳幹を経て脊髄まで神経がつながっている。
もしも脳の統合が上手くいってないとすれば、体からアプローチするのも一つの手だと思う。脳が司令塔であるのは確かだが、身体から脳へ刺戟を送ることも可能なのだ。というよりは脳と体を分離したものと考える前提がそもそも危うい。
例えば躾(しつけ)である。「身を美しくする振る舞い」が躾の本義であろう。日常生活の立ち居振る舞いや姿勢を正すことで脳を正常な位置に据えることが大切だ。運動はもちろんだが、もっと基本的な歩くことや指を使うことが効果的だと考える。
本書は茂木誠がおすすめしていた一冊である。