古本屋の殴り書き

書評と雑文

運動をするなら歩くことから/『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

 ・運動をするなら歩くことから

『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

悟りとは

「光」を見つけ、「光」のほうへ向かうという意味で、私は自分が指導する瞑想のやり方を「明想」と表記しています。

【『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次〈やまもと・せいじ〉(現代書林、2023年)以下同】

 タイトルがまずい。『「瞑想」から「明想」へ』と聞くと何となく「明想」の方が上のような印象を受けてしまう。そんなことを山本は主張していない。むしろ、『「明想」から始めよう』という内容だ。

 運動をするなら歩くことから始める。それと一緒だ。マインドフルネスだとかヴィパッサナーだとか手法にこだわると瞑想の目的を見失ってしまう。そうではなく、まずは瞑想に取り組むことだ。

 私は老子のいう道(タオ)を光と読んでいますが、これも同じことで本当は名づけたり説明したりできないものです。
 ところが説明は無理でも、体感し体得するのは可能なのです。

 老子が説く道(タオ)は「歩むべき道」といった通俗的な意味ではない。「法」や「摂理」を意味している。

 同じ(※『老子道徳経』の)第一章で老子はこうも述べています。

 名のある領域の向こうに 名の無い領域が、はるかに広がっている。明と暗のまざりあった領域が、はるかに広がっている。その向う(ママ)にも……入口には衆妙の門が立っている、森羅万象のくぐる門だ。この神秘の門をくぐるとき、ひとは 本物のLife Forceにつながるのだよ。

老子道徳経」については、Wikipediaに「単に『老子』とも『道徳経』とも表記される」とある。

 上記テキストはクリシュナムルティと完全に一致している。というか、見分けがつかないほどだ。

「明と暗のまざりあった領域」はインフレーション以前の宇宙すら思わせる。

 例えば、「赤いバッグ」が欲しいと思ったら、街を歩いていても赤いバッグばかり目につきます。同じように、「幸せ」を意識できるようになると幸せに対する感受性が高まり、日常の小さな幸せにも氣(ママ)づくようになっていきます。

 何を意識するかで人生の色彩は変わる。欲望は独特の集中力を高める。

 幸せに対する感受性が開花すると、それに合わせて現実もそのように変わってきます。

 幸不幸は環境要因で決まるものではなく、自らの精神に収まっているものなのだ。喜びに満ちた人は、喜ぶ出来事に遭遇しやすい。陰険で邪悪な精神は、人の粗(あら)しか見えない。コップ半分の水を、「もう半分しかない」と嘆くのか、「まだ半分も残っている」と喜べるのかの違いだ。

 ふと氣づいたら1時間明想していた、というのはOKですが、基本的には約15~20分でいいのです。それを1日に1~2回。多くて3回で十分と伝えています。

 具体的な注意点として記しておこう。尚、明想のやり方に関しては対価を支払って本書を紐解いてもらいたい。つまみ食いだけして満足するような書籍ではない。

 知花敏彦という人物の名前があったことも書き残しておく。