古本屋の殴り書き

書評と雑文

奇妙な中国礼賛/『季語百話 花をひろう』高橋睦郎

 ・鏡餅は正月の花
 ・奇妙な中国礼賛

 この感想に反論する人びとの中のある人は、わが国には歳時記があり季語があり、季語をいのちとする俳句があるではないか、と言うだろう。けれども、歳時記も季語も日本人の発明ではない。その原型である暦(こよみ)は、はるか古代に、中国から海を渡ってきたものである。この暦をもとに和歌の季語(きのことば)が生まれ、連歌俳諧(はいかい)を経て俳句の季語に承(うけつ)がれた。


【『季語百話 花をひろう』高橋睦郎〈たかはし・むつお〉(中公新書、2011年)以下同】

 読んだ瞬間に違和感を覚えた件(くだり)である。しかも巻頭の第1ページにこれを記している。「この感想」とは日本人が生まれつき自然に対する感受性が細やかであるとの考えが「半分は正しい」とする著者の感想である。

 そもそも文章が滅茶苦茶だ。暦と季語は別物だろう。それを言ってしまえば、漢字を使用する日本は中国の文化的属国となってしまう。

 そこで、日本人の祖先たちは季節に対して、師匠の中国人よりはるかに敏感、というより過激になった。(中略)
 日本人は先進国中国をお手本に梅を愛(め)でたが、やがて自前の花が欲しくなって桜を発見した、といわれる。自前の花として桜を愛でるようになって、他のさまざまの木の花・草の花の美しさを発見し、愛でるようになった。花だけではない、花の本体の草木、そこに寄ってくる鳥獣虫魚、そして人間にも、花に向けるのと同じに目を向けるようになった。

 卑屈なまでに中国を持ち上げる筆致が奇妙で、ここまでくると奇天烈と言ってよい。大体、「中国」などという国は当時存在しない。日本だってまだ統一されていないのだから国家意識が明らかであったかどうか定かではない。

 ヒトの眼は色の識別において鋭さを発揮する。「花の美しさに気づかなかった」という思考それ自体がおかしい。高橋はまだ存命のようなので、生きているうちに序文を書き直した方がいいだろう。