古本屋の殴り書き

書評と雑文

映画『夜と霧』を見て/『海を流れる河』石原吉郎

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル
『望郷と海』石原吉郎

 ・映画『夜と霧』を見て

『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
・『シベリヤ物語長谷川四郎
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』プリーモ・レーヴィ

必読書リスト その二

 絶版になっているため、最初に目次を紹介しよう。

  I

 三つの集約
 死者はすでにいない
 休刑と自己否定
 海を流れる河
 無感動の現場から
『望郷と海』について
 失語と沈黙のあいだ
 ことばは人に伝わるか
 俳句と〈ものがたり〉について
 賭けとPoesie
 定型についての覚書
 メモ(1972年~1973年)

  II

 国境とブイ
 仏典二冊
 手のひら
 半刻のあいだの静けさ
 私の部屋には机がない
 詩の定義
 私の酒
 麦畑と犬
「耳鳴りのうた」について
 日記 1
 日記 2

  III

 すれちがいの美学
 最高の法廷で
 低迷への自恃
 虚構のリアリティ
 鈍器としての暴徒
 避けられぬ詩人
 文体による救い
 危機感と正統性
 悔恨の先取り
 好女ねがわくば
 姿勢ということ
 見えているもの
 のがれがたい自由
 分身との対話
 消去して行く時間
 一滴多い凝縮

 自編年譜

 必読書とした。左翼全盛期において自分の言葉を紡ぐことは稀有な行為であった。石原の言葉が古くならないのは、人間の本源に迫っているためだろう。時折見せる生硬な主張の裏側にはシベリア抑留という被害の現実がある。怒りを抑制する知性と、憤激に駆られて止まない感情のせめぎ合いが垣間見えるようで、私は涙を禁じ得なかった。

 おそらくは私一人の感想かもしれないが、数年前、このフィルムが初めて公開された当時と今とでは、映像を受けとめる側の姿勢に、あきらかなずれがある。
 当時は、加害と責任の所在がきわめて単純で明快であり、ひとびとは安心してSSと呼ばれる殺人集団を名指せばよかった。そして、これらのすさまじい殺戮と悲惨からひき出しうる教訓は、このうえもなく明確であるように思われた。ナチまたはSSを告発することによって、ひとびとは安堵して被害と正義の側に立つことができた。
 今日、もはや一切は明確ではない。責任の所在と加害者のイメージは急速に拡散し、風化しつつある。というよりは、アウシュビッツそのものの輪郭がぼやけ、内容は空洞と化しつ(ママ)ある。かつてこれらの悲惨からひき出しえたと思われた教訓は、もはやなにものも保障しない。というよりは、極限状況そのものが一切の教訓から自由であるという事実に、私たちはようやく気づきはじめたのではないか。
 というのであれば、私たちは状況の拡散のなかで、ようやく真実に近づきはじめたというべきではないのか。ひと握りの戦争犯罪人を処刑して、歴史の均衡をささえなおしたと思うほど、今日私たちは素朴ではない。「責任者はだれなのか」とナレーターがつぶやくとき、私たちはようやく、ものごとの深みへと到る途をたどりはじめたといえるだろう。輪郭が不鮮明となるとき、私たちははじめて真実の一端にたどりつく、ということが、これらの悲惨からひき出しうる唯一の教訓である。これらの悲惨の真の責任者はだれか、それは人間【そのもの】である。そのことにおいて、私たちに救いはない。だがこれは結論ではない。問題の出発である。
(「死者はすでにいない ――映画『夜と霧』を見て」)

【『海を流れる河』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(花神社、1974/同時代社、2000年)以下同】

 六道を輪廻(りんね)するのが人類の業(ごう)なのか。ナチスの死刑を望む時、私は否応なくユダヤ人やジプシー・障碍者を殺戮したナチスと同じ位置に身を置く羽目になる。ナチスを支持したドイツ国民も戦後は軽々と立場を変えて、ナチスを声高に糾弾したことだろう。そしてドイツ国民をそこまで追い込んだのは、第一次世界大戦の莫大な賠償金であった。それを主導したフランスの罪はどうなるのか?

 石原が出した「それは人間【そのもの】である」との結論は、万人の悪を炙(あぶ)り出して、内省の谷間へ突き落とす。

 その後も人類はルワンダ大虐殺、ウイグル人大虐殺と同じ行為を繰り返している。

 このテキストは次のように締め括られる。

 試写が終って、外へ出た私を最初におどろかせたのは、戸外の異様なまでの明るさであった。私にはすべての風景が、一瞬まっ白に見えた。モノクロームから瞬間、黒だけがぬきさられたような風景のなかを、私は呆然とあるきつづけた。

 我が身に迫るものがあるだけに、石原の感慨はやはり竹山道雄とは異なる。同じ足取りで北鎌倉も歩いたに違いない(石原吉郎と寿福寺)。シベリアを抜け出した石原は海を目指して歩み続けたのかもしれない。

 いまこの文章を書いている私に、帰還直後「生きていてよかった」ということばを聞いたときの、全身の血が逆流するようなおもいが、ふいになまなましくよみがえる。(「三つの集約」)

「死んだ方がましだ」とさえ思えるような奴隷労働も知らぬ人間の浅はかな気休めの言葉を弾劾している。8年間も祖国から見捨てられた人々の情念を我々が理解することは難しい。それを政治的に利用することはたやすいし、実際に行われた。徳田要請問題に巻き込まれた管季治〈かん・すえはる〉は身の潔白を証明するべく鉄路に身を投げた。シベリアから帰国してわずか半年後のことであった。管を糾弾した政治家はテロの標的になるべきであったと私は考える。

 自死を選ぶ政治家の不在こそが、この国の政治状況をよく現している。若泉敬〈わかいずみ・けい〉を少しは見倣(なら)え。