古本屋の殴り書き

書評と雑文

私たちには植物が必要だが、植物の方は私たちを必要としない/『植物のスピリット・メディスン 植物のもつヒーリングの叡智への旅』エリオット・コーワン

『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド
『シャーマン・ヒーラー・賢者 南米のエネルギー・メディスンが教える自分と他人を癒す方法』アルベルト・ヴィロルド

 ・植物に尋ねる
 ・私たちには植物が必要だが、植物の方は私たちを必要としない

インディアン

悟りとは

 詩人のゲーリー・スナイダーは、私たちが家畜を食肉用に処理するやり方が、私たちの社会に終わることのない不運をもたらすもとになっていると述べているが、これは興味深い声明であり、真実であると私は考えている。これは東洋で言われるところのカルマの法則に基づいている。西洋では「因果応報」とか、「剣に生きる者は、剣に死す」などといった説教の中に、同様の理解を示す表現がある。多くの人々が家畜に与えられる不自然で残虐な生と死に対して懸念を示し、さらには激しい怒りを表明している。スナイダーは菜食主義者ではないが、私たちの動物に対する態度がその他すべてに対する態度と同様、自分たちにはね返ってくると指摘している。もし尊敬の念も感謝の念ももたず、犠牲となってくれる動物の命を奪えば、私たちもまた屈辱と疎外を免れないだろう。これは何も残虐な運命であるとか情容赦のない自然の摂理などではなく、ただ私たち自身が不運を創り出しているということなのだ。
 私たちの植物に対する関係性もまた、考慮する価値があるのではないだろうか。この関係性において最も際立っているのは、私たちには植物が必要だが、植物の方は私たちを必要としないというところにある。私たち人間は、燃料、住居、衣服、薬、石油化学というコルヌコピア、そして食物(肉でさえも植物からできている)は言うまでもなく、需要のすべてを満たすのに、全面的に植物に依存している。それとは対照的に、植物の社会は人間なしで申し分なく機能している。私たちは破壊と絶滅の脅威という苦しみの他には、何も植物には提供していないように見える。
 ここに、ある種のカルマの反動がある。私たちは土、空気、水そして太陽の放射といった、森や植物の指名の基盤を荒廃させつつある。これは殺人的なだけではなく、破滅的なことでもある。そのような状況下で、人類に対する植物のたゆみない寛大さは目を見張るべきものだ。何が植物をそれほど寛大にし、人間をそれほど残虐にするのだろう?
 道のどこかで私たちは一体であることの経験を失ってしまった。私たち人間は他のすべてのものとは違うのだという哀れな嘘を支えながら生活しているが、これは欺瞞(ぎまん)だ。なぜならあらゆるものの中心に同じ意識が輝いているのだから。この嘘は物哀しい。なぜなら、それが私たちにあらゆるものから疎外された無味乾燥の生活を宣告しているからだ。
 区別が無関心を生む。もし森と自分は別物であると考えるならば、あなたはより積極的に森を搾取しようとするか、自己の利益のために、他人がそうするように仕向けるだろう。
 一方、植物は自分たちが他の創造物と分離しているという幻想のもとにはいない。植物がどのように土や空気、鉱物、動物、昆虫などと相互に関わりあっているか観察するといい。周囲にあるすべてのものが、その存在によって豊かになり恩恵を受けている。植物そのものが自然だと言う人もいるかもしれないが、植物は自然と調和して生きている。この調和の中から、私たち人間や他のすべての同胞に対する、信じられないほどの寛大さはやってくる。

【『植物のスピリット・メディスン 植物のもつヒーリングの叡智への旅』エリオット・コーワン:村上みりこ訳(ナチュラルスピリット、2022年)】

 ミクロの視点に立てば森も人体も微生物叢(マイクロバイオーム)である。遺伝子全体の数でいえばヒトの遺伝子は5%に過ぎない(『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン)。

「私たちには植物が必要だが、植物の方は私たちを必要としない」――頭から冷や水を浴びた心地がした。その癖、我々は植物に感謝することを知らない。「いただきます」とは確かに言う。だがそこにどれほどの心を込めていることか。ちょっと虫食いがあったり、傷んだりしただけで捨てるような真似をすれば、いつか必ず罰が当たることだろう。

『シャーマン・ヒーラー・賢者 南米のエネルギー・メディスンが教える自分と他人を癒す方法』同様、本書も中途で読むのをやめた。シャーマニズムに対して私の感覚が黄色信号を灯(とも)すのだ。

 インドの瞑想はやがて密教に取って代わり、シナを経て日本でマントラ仏教と化した。神仏習合はもっと研究の余地がある。そして日本では卑弥呼に代表されるようにシャーマニズムの伝統がある。それがインディアンで結実したのだろう。しかも不思議なことにインディアン文化の中にヒンドゥー教と同じ視点があるのだ。

 シャーマニズムの知識や技術は特殊だ。それは彼らが医師や宗教者の役割をも務めることを踏まえれば当然かもしれない。しかし、その特殊性が道を閉ざしているように思えてならないのだ。インディアンは自然や宇宙との一体化を目指しているように見える。ひょっとしたら悟りの向こう側にある世界は同じ可能性もあるが、私としては病気治療や霊的交信よりも悟りを目指したい。