古本屋の殴り書き

書評と雑文

たゞ永遠の現在がある/『科学史と新ヒューマニズム』サートン:森島恒雄訳

 ・たゞ永遠の現在がある

『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳
『魔女狩り』森島恒雄

 若し個人の方が重要であるとするならば、吾々の昨日は屍の如く、過去は正しく過去のものとなるであらう。さうなれば、その中から役立つものはみな拾ひ出し、過去は掃溜に投げやる方がいい。
 だが私は信じてゐる、――いや私は知つてゐる、――個人は人類の一片に過ぎないといふことを、大切なのは人類であるといふことを。真実なものは樹であつて、やがて散るその葉ではない。吾々はみな人間といふ樹の一片の葉に過ぎない。いや、かう言つた方がよからう、過去現在未来を連ねる人類全体が一人の人間に他ならぬのだと。1700年ばかりも前に、オリゲネスはこれを簡明に言ひ表はしてゐる、「全宇宙は人間の如くに無窮なるものである」と。
 私は、自分自身が人間性(ヒュマニティ)のほんの一断片に過ぎないものだと信じてゐる。だがまた、物を観るには一断片としてではなく、全体としての観点から観るべきものであることをも信じゐる。随つて過去もなければ未来もなく、たゞ永遠の現在があるのみだ。私達はみな現在に生きてゐる。併し教養なき者の現在は狭く卑しく、真のヒューマニストの現在は普遍且つ洪大である。若しも過去が諸君の現在の一部でないならば、若しも過去が生きてゐる過去でないならば、諸君はその過去を放棄したがよい。

【『科学史と新ヒューマニズム』サートン:森島恒雄〈もりしま・つねお〉訳(岩波新書、1938年/原書は1937年)】

 旧漢字で歯が立たず。本テキストだと、真実=眞實、観点=觀點など。私が読んだのは31刷(1977年)だが版が改まっていない。

 個人的に冒頭リンクの3冊を「森島三部作」と呼んできたが、本書の存在を知り慌てて取り寄せた。本気を出せば旧字は読めるが、意欲を掻き立てられるほどの匂いがテキストから漂ってこない。というわけで潔く後進に本書を譲ることにした。

 個人よりも群れ全体が大切なのは言うまでもない事実である。歴史の狭間に自己犠牲を厭(いと)わぬ勇者が現れるのも、群れを守るためであり、そうした行為に心を惹かれるのもまた我々が群れ全体を重んじている証左であろう。

「たゞ永遠の現在がある」――生者と死者が渾然一体となったところに歴史は開かれる。我々は歴史を学ぶのではない。歴史を現在に生(い)かすのだ。