・椰子の実の生命記憶
・『生命とリズム』三木成夫
・『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』布施英利
小学生のころ、家に埃(ほこり)をかむった椰子の実があったのを覚えています。むき出した殻(から)の半分に口をあけて一輪挿しにしたおのです。骨董(こっとう)好きの父がどこからか買い求めてきた代物で、そのころから皮の厚さのことなどは頭にあったのでしょう。それはしかし、ノコギリを使っても大変でした。この皮の頑丈さは、どうだろう。これに護られて、海を渡ってくるのか……。
やっと、ささくれ立ったシュロ皮のなかから白っぽい殻が顔をのぞませてきました。おそるおそるキリをもんで、そこに穴を二つあけて、その一方にストローを差し込んで、わたくしは夢遊病者のように、なかの液体を吸ってみたのです。
「なんだ、こりゃあ」それは、拍子抜けというべきか、まるで他人の味ではありませんでした。むしろ、懐しい味とでもいった、そんな味でした。そして次の瞬間――
「いったい、おれの祖先は……ポリネシアか……」
これはもう、ほとんどはらわたから出た叫びですから、そこには理屈も何もありませんでした。
もっとも、あとで聞いた話では、わたくしの味わったその実は、現地のにくらべると、かなり古くなっていたのだろうとのことです。【『胎児の世界 人類の生命記憶』三木成夫〈みき・しげお〉(中公新書、1985年)】
再読中。20代で一度読んでいる。
特にどうということのない文章である。だが私は岡潔のテキストを覚えていた。二つのテキストが私の中でシンクロした。三木はここから玄米と母乳の味にまで筆を伸ばしている。
前回、「大いなるデジャヴュ」と書いた。岡は視覚と聴覚を通して、三木は味覚によって「元始の記憶」が蘇った。五官の刺激に対する反応だが、反応の深さが違う。
共通するのは「自然との邂逅(かいこう)」である。何となく人工的な情報の弱点が見えてくる。
「懐かしさ」は心を洗い清める。歳月とともに溜まった心の埃(ほこり)を振り払ってくれる。
ある種の「縁覚」(えんがく)の境地といってよい。