古本屋の殴り書き

書評と雑文

「全都道府県の鍛冶職人をめぐった集大成。」/『日本鍛冶紀行 鉄の匠を訪ね歩く』文:かくまつとむ、写真:大𣘺弘

『仕事の話 日本のスペシャリスト32人が語る「やり直し、繰り返し」』木村俊介
庖丁
・『「包丁修行」入門 桂むきで覚える板前包丁の秘密』小森亨
『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一
『手業(てわざ)に学べ 天の巻』塩野米松

 ・「全都道府県の鍛冶職人をめぐった集大成。」

必読書リスト その一

 いかに屈強な人間も、硬い鉄には歯が立たない。その鉄も、熱い火へ投じられれば飴のように軟弱になる。鉄さえ骨抜きにする火も、人の手加減ひとつで猛獣のように荒々しくもなれば、飼い猫のようにおとなしくなる。
 火をもって鉄を御す。じゃんけんの三すくみにも似たこの関係を巧みに操ってきたのが、鍛冶屋という職人衆である。
 類(たぐい)まれな有用素材「鉄」を見い出したことで、私たちの祖先は木を伐り、土を起こし、石を穿(うが)つといった作業を容易に行なえるようになった。鉄の登場以来、文明はすさまじい早(ママ)さで発展を遂げる。現代のITやモータリゼーションは、高度な現代文明の象徴であるが、その源流は、はるか昔、鍛冶という匠たちが作った素朴な鉄の利器や冶具にある。
 鍛冶屋はあらゆる工業の原点である。

【『日本鍛冶紀行 鉄の匠を訪ね歩く』文:かくまつとむ、写真:大𣘺弘〈おおはし・ひろし〉(ワールドフォトプレス、2006年)以下同】

 記事タイトルを鉤括弧でくくったのは表紙にある言葉のため。文章も写真も素晴らしい。定価は1905円+税。私が鉄好きだからという理由で必読書としたわけではない。伝統や文化、そして日本人の仕事に対する考え方(労働ではなく勤労として)までもが、我々の目の前で消え失せようとしているのだ。

 4~5ページの写真に目を奪われた。黒を強調した作業場の写真である。三角形に切り取られた光が得も言われぬ造形を生んでいる。浮かび上がる映像が判然としないが、道具や鉄くずが不思議な存在感を示している。開け放たれた引き戸の向こう側には濃い緑が所狭しと植わっている。

 日本の職人はおしなべて質素である。いや、はっきり言おう。貧しいのだ。「世界!ニッポン行きたい人応援団」などを見てもわかるように、とても一流の名品が生まれるような場所には見えない。経済的な対価も少ないと思われるが、政府や自治体の援助もないのだろう。伝統文化が滅ぶのも当然である。こうして匠(たくみ)の技は消滅するのだ。

古材を練り合わせる
 赤く錆びた鉄も、火の中で芯から熱して打ちつけると、垢のような皮膜がはがれて本来の地肌が現われる。鉄蝋をたっぷりまぶしつけ、幾度も強く打ち合わせると、古材はひとつの塊となって再生の産声をあげる。接着はしているが溶け合ってはいない。鉄それぞれの個性と来歴は、ナイフの模様の中に美しく、穏やかに刻まれてゆく。

 製造過程を紹介した写真のキャプションである。文体が完全なハードボイルド(写実主義)でありながらも、かすかな詩情が漂う。鉄の黒光りを思わせる文章だ。

 鉄には命があり、道具には魂が宿る。過去に感謝し、未来になにごとかを祈るような思いで描き出された日本のダマスカス模様。それが影浦さんの鍛造ナイフだ。

 高知県にある影浦工房の主・影浦賢が制作するダマスカスナイフは以下で購入できる。

影浦 賢 Ken Kageura - 伝統の打刃物をお届けする「ナイフ・ギャラリー」

 高価である。ナイフに15万円以上支払うことは中々できるものではない。しかし、よく考えてみよう。ナイフを使う頻度はそれほど多いものではあるまい。きちんと手入れをすれば孫子の代まで使用可能だろう。100年使うと計算すれば年間1500円である。リース料と考えれば妥当な価格だと思うがどうか。あるいは、1万5000円のナイフを持つ人々はたくさんいることだろう。中には複数本を所有している人もいるに違いない。だったら、10本分の価値があるかどうかが購入の判断基準となる。

 道具は身体機能を拡張するものだ。それゆえ、いい物を選ぶべきだ。部屋に飾る芸術品にカネを出すくらいなら、思い切って道具に費やすのが生活を豊かにするコツである。

 日本の職人技や伝統工芸をもっと世界に売り出すべきだ。昨今のドル高を思えば、多数のアメリカ人が買ってくれるだろう。