古本屋の殴り書き

書評と雑文

人はなぜスピードを志向するのか?

 私が自転車に乗っていたのは1年程度なのだが、宮ヶ瀬湖周辺は隈(くま)なく走っていることに気づいた。あまり休まないので、どの自動販売機で飲み物を購入したかも覚えている。バイクで駆け抜ける瞬間に、自転車を降りて地面に坐り込んでいた記憶が蘇る。「よくもまあ、こんなところまで走ったものだ」と我ながら感心している。

 人はなぜスピードを志向するのか(※最初は「嗜好」と書いた)? この場合のスピードとはウォーキング以上の速度を意味する。風に吹かれたい衝動は確かにある。特に自転車で峠の下りを走る時の爽快感は何ものにも代え難い。

 自転車とバイクは不思議な乗り物だ。二輪の特性もさることながら、単なる移動手段ではなく、「乗ること」自体が目的となっているのだ。クルマの運転でそこまで思える人は稀だろう。「狩猟-獲物=スポーツ」という式が正しければ、自転車とバイクは限りなくスポーツに近い。

 自転車といってもロードバイクだと下り坂で60km以上は軽く出る。上り坂だと歩く速度と変わらないが止まってしまうとリズムが狂う。このため美しい景色に遭遇しても写真を撮る行為には中々及ばない。仮に気に入った写真がどんどん撮れたとしよう。すると今度は写真撮影が目的と化すのだ。もともと私は「見る」行為の瞬間性について思索してきた経緯がある。

 何気なく撮影する時も自転車やバイクにまたがったままのことが多い。以下は今日の宮ヶ瀬湖である。

 同じ風景は二度と見ることがかなわない。あらゆる風景が諸行無常を歌い、奏でてている。

 気温が10℃だと相模原や愛川の小高い場所に位置する道路は凍結している箇所がある。それでもバイクにまたがるのはスピードを求めているとしか考えられない。ひょっとして死にたがっているのだろうか? 先月、奥多摩周遊道路を走ったところ、至るところに「凍結注意」「落石注意」の看板があった。私は密かに「滑って崖から落ちて死ぬのも悪くないな」と思った。落石で死ぬのも「大当たり」感がある。「どうせ死ぬのであれば畳の上では死にたくない」――若い時分からそう考えてきた。

 私のツーリングは95%が峠である。直線よりもワインディングの方がスピードを感じることができる。曲がりしなのトラクションからバイクを起こす挙動の間に、バスケットボールのドリブルで敵をかわすようなクイックなモーションがある。

 次々と走り去る景色は早回しをしている映画のようだ。それでも尚、私の眼は裸木と青空を、舞い落ちる枯れ葉を、歩道で溶けることのない霜を、ヘルパーと思しき女性に押してもらった車椅子から私に向かって手を振る老婆の姿を捉える。老婆には辛うじて左手で振り返した(今日の出来事)。

 速度にはエネルギーが必要だ。

エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む/『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄

 そして、「速度は空間を圧縮する」。最終的に「テクノロジーは人間性を加速する」。

 加速するにつれて時間の進み方は遅くなる(相対性理論)。光速度に至ると時間は止まる。

 光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン】

 ひょっとして私は光を追い掛けているのだろうか?