・天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず
・『養生訓に学ぶ』立川昭二
・『養生訓』貝原益軒:松田道雄訳
・『養生訓・和俗童子訓』貝原益軒:石川謙校訂
・『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著
人の身は父母(ふぼ)を本(もと)とし、天地を初(はじめ)とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私(わたくし)の物にあらず、天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つゝしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。
【現代語訳】人のからだは父母をもととし、天地をはじめとしたものである。天地・父母の恵みを受けて生まれ、また養われた自分のからだであるから、私のもののようであるが、けっして私だけのものではない。天地の賜物(たまもの)であり、父母が残されたからだであるから、慎んでよく養い、いためたりこわしたりしないで、天寿を長くたもつようにしなければいけない。
「だからこそ、軽々しくイヤリングやピアスなんぞを付けるべきではない」と思った。刺青(いれずみ)も同様である。続いて我が身を振り返った。週末のたびに甘いものを貪り、定期的な運動を怠り、喫煙をし、就寝前の空腹に耐えられず何かを口にし、仕事とはいえ昼夜逆転することが多い。「慎んでよく養い」から程遠いのは確かだ。
文語には日本人の背筋を伸ばす効用がある。思わず平伏(ひれふ)しそうになるほどの強靭さに満ちている。素読したい名文である。
貝原益軒〈かいばら・えきけん〉は江戸前期の人である。父母の送り仮名が「ふぼ」となっているが、「ぶも」「ふも」が正しいように思われる。
いかなる古典も、『方丈記』にしても『奥の細道』にしても、その開巻劈頭(へきとう)の一行が、全編の基本的なモチーフ(動機)を表している。『養生訓』においても同じである。(中略)
ここには、人の命は「授かりもの」であり、遠い先祖と広い天地につながっているものであるという考えがはっきりと述べられている。
私たち現代人は、子どもは「作るもの」という意識が強いが、伝統的な生殖観では子どもは「授かりもの」であった。最近の生殖技術の進歩は、子どもは「作るもの」からさらに「作れるもの」ということになり、人間の欲望を無限にかりたてている。
子どもは「授かりもの」という考えは、自分の命も「授かりもの」という考えに通じる。それはまた、自分の命は自分をこえて他の命とつながり、宇宙全体にひろがっているという考えでもあり、自分の命であっても「私の物にあらず」という思想になる。
『養生訓』の開巻劈頭の発語は、人間の命は「私物」ではなく天地からの「授かりもの」であるということばである。この命への畏敬(いけい)が、じつは『養生訓』の出発点なのである。
我が子を所有物と考えたところに現代教育の致命的な誤解がある。子沢山の時代は放任されていたが、出生率が二人以下となると子供はあたかもペットのように保護され、手懐(なず)けられた。幼い頃から習い事に行かされ、塾に通わされ、ビリヤードの球(たま)を衝(つ)くようにエリートコースを走らされる。子供の意思は剥奪され、情緒は弾むことなく、やがては光を失った瞳で社会を眺めるようになる。
あるいは子が生まれたところで、母親は共働きを強いられて大切な子育ての機会を失う。幼子を見守るのは保育所の他人だ。そこには愛情がある人も無い人もいることだろう。
社会全体が子供を大切にしていないのは明らかだ。本当の子育て支援とは、母親が働かなくても、せめて小学校低学年までは一緒に過ごせる支援を行うことだ。
少子化は経済だけの問題ではあるまい。戦争や寒冷化が近づいている証拠ともいえる。あるいは人類を絶滅にまで追いやるようなパンデミックが起こるのかもしれない。世界経済フォーラムが仕切るような世界に赤ん坊が喜んで生まれてくるとは到底思えない。