古本屋の殴り書き

書評と雑文

悟りの他性/『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋

『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃

 ・見性=悟り
 ・悟りの他性

悟りとは

 菩提達磨北朝北魏から東魏)において洛陽や(ぎょう)に居住したインド人出家者である。後世において、禅宗の初祖として有名になった。以下のことばは、6世紀に編纂された最古の禅文献、『四行論長巻子』による。

 三蔵法師菩提達磨)はおっしゃった。
「悟らないでいる時は人のほうが真理に迫っていこうとするが、悟る時は真理のほうが人に迫ってくる。悟ってからは景色を包んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている。」

 これは、筆者が知るかぎり、現存最古の悟り体験記である。いかにも簡素であるが、後世の悟り体験記に記されることばはこの菩提達磨のことばとしばしば合致するのであり、簡素ながらも含蓄深い体験記と言わざるを得ない。

【『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋〈おおたけ・すすむ〉(新潮選書、2019年)】

「『私』というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ」(ネイサン・ギル)。劇的な認識の転換である。舞台と客席が逆転するような視点の変化である。

 悟りは向こうからやってくるらしいのだが、それを待ち受ける姿勢が大切だと思う。ブッダ滅後、弟子たちの中から経典作成に向けた動きが出てくる。ブッダに近侍(きんじ)し、多聞第一と謳(うた)われたアーナンダ(阿難)が主導役に相応しかった。だが反対する声が多かった。なぜなら彼は悟りを開いていなかったためだ。それを知ったアーナンダは修行に勤(いそ)しみ、悟りに至るのである。

 ここで「努力」という言葉を出すと自我が強化されてしまう。悟ろう悟ろうとすることもまた執着なのだ。ただ、悟っていない自分をありのままに見つめればよい。