古本屋の殴り書き

書評と雑文

「私」とは単なる景色の一部にすぎない/『すでに目覚めている』ネイサン・ギル

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる 非二元・悟りと癒やしをめぐるストーリー』中野真作
『これのこと』ジョーイ・ロット
・『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『オープン・シークレット』トニー・パーソンズ

 ・「私」とは単なる景色の一部にすぎない

『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン
『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 僕はトニーに自分の「先生」になってほしかったが、彼は教えることなど何もないと言って、存在するのは〈意識〉だけだ――そして僕はすでにそれだ――ということをひたすら指摘した。そのことはそれ以前もある程度までは理解していたが、こんどは本当に浸透しはじめた。
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいくような。
「自分」がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が〈意識〉だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、この「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしようとしている分離した個人という視点――つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」という催眠がかかりはじめ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事――それはまさにその「僕」の不在だったのだが――は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感――「僕」がいない状態で生じた至福の感覚――に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。

【『すでに目覚めている』ネイサン・ギル:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年)以下同】

 ノン・デュアリティ(非二元)の経典本と言っておこう。まず、わかりにくい言葉を統一しておきたい。ノン・デュアリティをネオ・アドヴァイタとする向きもあるようだが、非二元=梵我一如不二一元論との理解でいいように思う。ただし諸法無我が前提である。

 トニーとはトニー・パーソンズのこと。白人が書いた悟り本には必ずといってよいほど登場する人物である。『オープン・シークレット』は一度開いたが挫折している。

「私」がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終ったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ――単なるひとつの思考だとういこと――を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。【知】だけが存在しているが、「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。〈意識〉としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。

「『私』というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ」――衝撃の一言である。私とは世界を映す鏡に過ぎないのだろう。神道神鏡を用いるのは太陽を擬しているとのことだが、「私」は「見る」ことによって世界を照らしているのだろう。仏教の止観、そしてクリシュナムルティが説いた「見る」意味がくっきりと浮かび上がってくる。

 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。

 諸法無我ではあるが、無我の自覚がなくても構わないとの指摘だ。各人が各様に世界を見つめている。それでいいというのだ。悟りへの執着もまた新たな悩みとなる。しかも悩むことで自我が強化される。やがて悟りは単なるご褒美と化すことだろう。わかりやすく一言でいってしまえば、「悟っても悟らなくてもいいことを悟る」という話だ。

 違いはたった一つである。悟れば生きるのが楽になる。川を流れる水のように滑(なめ)らかに生きることができる。「私」とは差異の世界を生み出す根本原因である。「私」が消えれば世界は一つになるのだ。

悟りの他性/『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋