古本屋の殴り書き

書評と雑文

来ては去っていくもの/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編

『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ニュー・アース』エックハルト・トール

 ・認識の中に認識をする人は存在しない
 ・あなたの櫂を投げ捨てなさい
 ・来ては去っていくもの
 ・欲望からの解脱

『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

悟りとは
必読書リスト その五

パパジ●妹は帰ってくるなり言った。「私は明日あなたをサットサン(※師のもとの集まり:『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』)に連れてくるとスワミに約束してしまいました。どうしても来てください」
 どうして「だめだ」と言えよう? 私は彼女とそこへ行き、60人ほどの人たちとともにそこに座った。
 サットサンが終わると、スワミが尋ねた。「皆さん、至福を体験しましたか?」
 多くの人が「はい! はい!」と叫んだ。
 彼は一人一人全員に尋ね、誰もが「はい」と答えた。だが、私の番が来たとき、私は答えた。「いいえ」。彼はびっくりしていた。
「ここにいる誰もが至福を体験したと言っています。今日のサットサンで私たちはあふれるほどの至福を体験したのに、それを体験しなかったと言ったのはあなた一人だけです。人々は毎日ここで至福を体験しています。何が問題なのですか?」
 私は彼に何が問題なのかを告げた。「昨日ここに来た人々は、おそらく皆が至福、アーナンダを体験したと言ったでしょう。今日も彼らはここで至福を体験したと言いました。その間、アーナンダはどこに行ってしまったのでしょう? どこに走り去ってしまったのでしょう? 今日のアーナンダはどうでしょう? 彼らはここを去って、しばらくしてから言うことでしょう。『アーナンダは消えてしまった。それはもうそこにない』と。部屋を去るとともに消え去るものは、部屋の中にいたときも存在していなかったのです。実際、アーナンダはこの人々の誰にも起こらなかったのです。本当のアーナンダなら、常にそこに存在しているはずです。アーナンダは来ては去ってゆくものではないからです」
 彼はしばらくの間静かにして、深く考えているようだった。それから別の部屋に入ると小さな本を持って戻ってきた。私には彼が本を手にしているのが見えたが、何の本かは気にとめなかった。
 スワミは言った。「私はこのマハートマーがまだ生きているのか、もう死んでしまったのか知りませんが、この本の中で、彼はあなたと同じことを言っています。私は最近この本を読んだのですが、彼はまったく同じことを語っていました」
 それから、彼は本の名とそのマハートマーの名前を告げた。
 私は微笑んだ。「彼は私のグルです。私は彼の弟子なのです」
 スワミは良い人だった。彼は教壇から降りてくると、私をその場に迎えて言った。「ここに座ってあなたのグルと彼の教えについて話してください。私が彼の教えについて聞いたのは、これがはじめてなのです。あなたは言いました。『来ては去ってゆく体験は永遠の状態ではない。永遠の状態は来ることも去ることもない。それはあるとき体験され、別のとき体験されないようなものではない』と。どうかこのことについて私たちに語ってください」
 私は皆の前に立って言った。
「来ては去っていくものは罠です。それは心の罠なのです。心はたくさんの罠を仕掛けていて、一時的な至福状態もその一つです。これらの体験は内なる欲望から、霊的体験とはどのようなものであるべきかという概念から起こるのです。あなた方は至福を求めています。なぜなら、それが霊的な道の上で起こるべきことだと期待しているからです。心はあなた方に無理じいをし、至福を楽しめるような状況をつくりだします。それはすべて罠なのです。このような罠にかかったなら、解脱(げだつ)を達成することは誰にもできません。それが罠だと知ってさえいれば、自分からかかりに行くことはないでしょう。何であれ一時的なもの、来ては去って行くものが罠だと知っていれば、それで充分です。どんなに快いことであれ永遠でないものを拒絶することは、快楽や至福を求める心の習慣に対抗して働きかけ、それがあなた方を自然な状態に連れ戻すのです」
 心は忙しくしていたい。わかるだろうか。それはあなたのためにある目的地を定め、それからそこに到達しようと試みるのだ。それはつかの間の至福状態をあなたの目的地として定め、それからそれを達成するためあなたに努力を強いる。そして何か良いもの、何か霊的なことを達成したと考えるのだ。これはただの先延ばしにすぎない。あなたはただ悟りを次の年、次の生に先延ばししているだけだ。

【『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編:福間巌〈ふくま・いわお〉訳(ナチュラルスピリット、2007年)】

 150ページを過ぎたあたりで読むのをやめた。図書館から借りたのだが、これは買わねばならない。そして「一気に読む」本ではない。真剣勝負でパパジの魂に触れるつもりがないのであれば速やかに本を閉じるべきなのだ。襟を正す必要がある。

「来ては去っていくものは罠です。それは心の罠なのです」――即座に浮かんだのは「如来・如去」(タターガタ)という言葉であった。

 仏の別名を如来(にょらい/タターガタ)という。真如(=真理)より来(きた)りし者との意である。これに対して如去(にょこ)あるいは好去(こうこ)という呼称(スガタ)もある。十号の善逝(ぜんぜい)がこの意であろう。「善く逝く」とは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を表す。

 因(ちな)みにティク・ナット・ハンが仏典に基づいて描いた傑作『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』では「タターガタ」を両方の意味で使っている。

「来る」という語は何となく来迎(らいごう)を思わせる。Wikipediaに「如去は向上自利であり、如来は向下利他である」とあるが、如来にはやはり大乗的な臭みがある。

湯殿川を眺める

 パパジが示すのは「時間という幻想」なのだろう。つまり、「修行を重ねて➡悟る」ことの否定でもある。それを「現在の完全性」と言い換えてもいいだろう。今この瞬間は満月のように欠けるところがないのだ。そう思えないところに凡夫の愚かさがある。

 とすると悟りに必要なのは「放す」(離す)ことなのだろう。我々は何を握っているのか? そう。「私」である。私という自我意識こそが如実知見を妨げているのだ。そして「私」を構成するのは記憶と欲望である。既に存在しない過去の慣性を実在と錯覚し、まだ来ていない未来に対して何かを手に入れようとあくせくしているのだ。現実は完全に見落とされ、単なる通過点の意味しか持たない。

 その一方で「至福」の落とし穴を指摘する。一時的な歓喜六欲天に通じる。自由に見えて自由ではない。いまだ欲望に支配されているがゆえに。至福は常習性のある麻薬となる可能性すらある。パパジの言葉はサマディ(三昧)をも否定しているように感じる。

 つまり、「悟り」に対する先入観からも離れよ、と教えているのだろう。予測されたものは過去の反映である。決して不可思議に至らない。

「来ては去っていくものが罠」であるとすれば、「来ても去ってもいないもの」は何だろう? それは「私」だ。私の意識であり、気づきだ。世界は諸行無常を奏でながら移ろう。実在するのは気づきだけだ。