古本屋の殴り書き

書評と雑文

ウパニシャッドという文化的土壌/『ブッダとは誰か』吹田隆道

『ウパニシャッド』辻直四郎

 ・ウパニシャッドという文化的土壌

ブッダ」という語は「覚(さと)る」という意味の動詞の過去分詞で、「覚った」という意味をもってます。

【『ブッダとは誰か』吹田隆道〈ふきた・たかみち〉(春秋社、2013年)以下同】

 同名の書籍がある(高尾利数、柏書房、2000年)ので要注意。著者略歴に「専門分野は梵文阿含経典の批判的研究。現在、浄土宗招善寺住職」とある。「なんだかなあ~」との印象を拭えない。「浄土宗を宣揚するためにサンスクリット語初期経典を批判するぜ」ということなのだろうか。思想・信条は中々厄介な代物で、思考や価値観の立ち位置が決まってしまう。それは党派性をも示唆する。何らかの団体に所属する者は団体の利益のために働いてしまうのだ。

 吹田は言葉のニュアンスとしては「悟る」よりも「覚る」が正確だと記している。つまりブッダとは「覚者=目覚めた者」を意味する。

釈迦牟尼の)「ムニ」(牟尼)というのはパーリ語サンスクリット語で「聖者」を意味する語句ですから、もともとは「釈迦族の聖者」を表すものですが、

 日本仏教では「釈迦牟尼世尊」が最も流通している尊称だろう。略して「お釈迦様」。

 これ(※ブラフマン)と並行して考えられたものに「アートマン」(我)がありました。この語はもともと「呼吸」を意味するものでしたが、生命の主体としての「生気」や「霊魂」を表します。そして他者との区別においての「自我」や「自己」という私たちの中に内在する自我意識を表しました。

 生きるとは「息する」が語源なので日本人にはわかりやすい。イエスユダヤ教から生まれたように、ブッダもまたヒンドゥー教の大地から誕生した。思想的な批判よりも、文化的土壌をもっと重んじるべきだろう。

 このように「輪廻」、「業」、「解脱」、「瞑想」など、インドの哲学思想に出てくる基本的な考えは、まさにこのウパニシャッドによって培われました。

 人々の思考の土台ができてから覚者が登場するのだろう。日本仏教だと禅以外は瞑想から離れてマントラ口唱に変質してしまった。

 それぞれの文化の中には、特定の宗教としてではなく、人々が素朴に保っている精神、心的傾向というものがあります。そのような社会全体がもっている共通の心情のようなものを「シビル・レリジョン」といいます。(中略)「目に見えない宗教」という表現をした学者もいます。

ハーヴァード大学教授やカリフォルニア大学バークレー校の社会学教授を歴任したロバート・ニーリー・ベラーの提唱した概念で、『市民宗教』とか、『公民宗教』と訳されている」(シビルレリジョン: 河野秀海 Official ブログ)。

 移民が多い国で共通のエトスが形成されたという意味合いなのだろう。私が日本アニメに期待するのもこれである。一神教世界に亀裂を入れることができるのはアニミズムという世界観・自然観を盛り込んだアニメーションであると考えている。たった今気づいたのだがアニメーションもアニミズムも、ラテン語で霊魂を意味するアニマに由来する言葉だ。

 アニマには「気息」の意味もある。ここでアートマンとつながるではないか(笑)。