古本屋の殴り書き

書評と雑文

不思議な違和感/『悲しみの秘義』若松英輔

『ブレヒトの写針詩』岩淵達治編訳
『狐の書評』狐
『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義
『もう牛を食べても安心か』福岡伸一
『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
・『彩花がおしえてくれた幸福(しあわせ)』山下京子、東晋

 ・不思議な違和感

『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『石に話すことを教える』アニー・ディラード
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ

必読書リスト その一

 彼女と夫が用意された個室に入ると彼女の母親が来ていた。このとき、ほとんど口をきけない彼女が母に言ったのは、疲れるといけないから今日は家に戻って、明日、また来てほしいということだった。「明日」は来なかった。彼女は、自分の最期を母親に見せまいとしたのである。
 二人きりになると彼女は、酸素マスク越しに夫にむかって、「ごめんね、少し疲れちゃった」と言った。亡くなったのは、彼女の母親が病室を出て、3時間も経過していないときのことだった。(「彼女」)

【『悲しみの秘義』若松英輔〈わかまつ・えいすけ〉(ナナロク社、2015年/文春文庫、2019年)以下同】

 高橋巖〈たかはし・いわお〉著『神秘学講義』(角川ソフィア文庫、2023年)の「解説」で若松英輔を知った。抜きん出た解説文だった。視界が広がるような文章の冴えがあった。アマゾンレビューで最も評価が高い本書を直ぐ取り寄せた。

 恐ろしいほど文章が巧みだ。私はかえって眉をひそめた。クンクンと鼻を鳴らした。厭(いや)な臭いは感じ取れない。それでも不思議な違和感を覚えた。名文であればあるほど微(かす)かな嫌悪感が芽生えた。

 髙橋本の解説で若松がキリスト者であることを知った。本書でも「師について」と題した一文でカトリックの司祭を紹介している。私は予(かね)てから、一方で「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と説きながら、他方では魔女狩りや有色人の大虐殺を行ってきたキリスト教を忌み嫌ってきた。それは、『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(レヴェリアン・ルラングァ)で決定的となり、『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』(竹山道雄平川祐弘編)で動かぬものとなった。

 二面性があるキリスト教の歴史は、個人において二重人格として表れる。口では綺麗事を言いながら、ともすると人間に対する関心の低さが露呈しがちだ。キリスト教世界で咲いた近代の徒花(あだばな)が共産主義だが、彼らはキリスト者以上に二面性があり、政治的本音を隠しながら、知的な理論武装で大衆を誘導する。私が神谷美恵子〈かみや・みえこ〉や石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉を好きになれない理由である。

 とはいうものの、ベルトルト・ブレヒトとは友達になれそうな気がする(笑)。

 違和感の理由はもう一つある。紹介されている書籍に興味が湧かないのだ。引用された文章はどれも秀逸で的を射たものだ。それでも尚、私が選んだ「必読書」には敵(かな)うまいとの思いが沸々とたぎってくる。

 密葬には夫の家族も参列した。夫の母親は棺の縁をつかみ、「どうして、あなたそこにいるの」とむせび泣いた。その声を聞いたとき夫は、本当に妻がいなくなったのだと、初めてそのように思う。このとき、わずかに残っていた理性がほころんでいたら夫は、葬儀の進行を妨げるほどに慟哭(どうこく)したかもしれない。

 若松英輔の文章には「柔らかな自由さ」がある。それが単なる技工かどうかと目を凝らしてみたが私にはわからなかった。だが、「彼女」と題した一文を読んで愕然とした。病に斃(たお)れた妻と夫のスケッチである。亡くなった親友をまざまざと思い出した。

 34歳の時、半年の間に次々と5人の後輩を喪(うしな)ったことがある。そして親友も旅立ってしまった。脳腫瘍の再発だった。最後に見舞った時、彼はICUのベッドで身動(みじろ)ぎもせず横たわっていた。眼の上に置かれていた濡れたタオルをどけてみると、開かれたままの瞳に光はなかった。私は耳元で静かに語りかけた。体は動かなかったが呼吸が深くなった。言葉は確かに届いていた。だが、その日の21:20に彼は今生の幕を下ろした。

 26年前のことだが、私があの日を忘れたことはない。それからというもの、泣くことができなくなった。もう一生分泣いたのだ。私の時計は34歳で止まったままだ。昨年還暦を迎えたが34歳なのだ。「気が若い」とかそういうレベルの話ではない。感覚が完全に34歳のままなのだ。ひょっとしたら私の半分が死んでしまったのかもしれない。だから私が老いることはない。

「彼女」を読んだのは今日のこと。そのまま本書を読み終えた。そして今日は親友の命日だ。

 若松は人生の深淵にあって言葉を探り、言葉をつかんで立ち上がり、言葉の石段を一段一段築いてきたのだろう。すなわち若松は詩人ではなく、言葉の建築士なのだ。そう思い至った途端、不思議な違和感は霧が晴れるように消え去った。

 冒頭のリンクはあまり脈絡がないのだが、私が選んだ「名文リンク」である。