・『物語の哲学』野家啓一
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
・『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
ソクラテスは、ホメーロスの一節から政治問題、たったひとつの単語に至るまで、あらゆるものに対して、その元になっている思考の核心が明らかになるまで問いかけを続けることを要求した。目標は常に、その思考が社会の最も深遠な価値観をどこまで反映しているか、あるいは反映できていないかを理解することにあり、対話のなかでの弟子との問答は指導の媒体であった。
【『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ:小松淳子〈こまつ・じゅんこ〉訳(インターシフト、2008年)以下同】
人生で最も大切なのは「問うこと」である。これが私の持論である。物心ついた頃から「なんで?」というのが私の口癖であった。小学校に上がるか上がらない年頃に父から激しく叱られたことをよく覚えている。あまりにも「なんで?」を連発し過ぎたために。
対話の名人は問いかけの名人でもある。計算機のように答えを即答するところに知性のきらめきはない。問いを通して相手の心を掘り下げるとこにコミュニケーションの目的がある。相手を理解することは自分を理解することに通じるのだから。
ソクラテス式問答法の根底には、言葉に対する独特の考え方がある。指導すれば、真実と善と徳の探究に結びつけることができる、あふれんばかりの命あるもの、それが言葉なのだ。ソクラテスは、書き留められた言葉の“死んだ会話”とは違って、話し言葉、つまり“生きている言葉”は、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって一枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。それに反して、書き留められた言葉は反論を許さない。書かれた文章の柔軟性に欠ける沈黙は、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスを死すべき運命へと追いやったのである。
ブッダも孔子も書いた言葉を残していない。ここに我々が考えるべき大いなるテーマがある。
本書では識字障害についても書かれているが、私としては石原吉郎〈いしはら・よしろう〉の失語の体験の方が胸に迫ってくるものがある(『石原吉郎詩文集』)。あるいはリルケの『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』も参照するといい。
仏典ではこの娑婆世界を「耳根得道の国」としている。六根(ろっこん)の中で最初に機能し、しかも最後まで働いているのが聴覚である。耳は眼と違って常に開いている。もちろん情報量は視覚の方が多いが、耳は空気の振動と同調することで世界と直接つながっている。
当たり前ではあるが赤ん坊は文字を読めない。親の声は母胎にいる時から聞こえている。たとえ耳が不自由であったとしても声の振動は伝わる。また何らかの危機感を知らせる時に頼みとするのは「危ない!」などの叫び声であり、眼に何かを伝えることはない。
接触する行為には愛情と暴力の二通りがあるが、家族以外で接触するのはタブー視され、暴力だけが生々しい形で残っている。
書かれた文字が伝えるのは概念や思考である。それはコミュニケーションではない。例えば著者に手紙を書いたとしても、それは礼賛か批判に終始することだろう。
やはり直接会って話をするのが正しいコミュニケーションなのだ。我々はあまりにも過剰な情報にさらされて、出会いや語らいを軽んじているところがある。「二度と会えないかもしれない」との覚悟が欠けている。だから、どうでもいいツイッターのタイムラインのような会話しかできないのだ。眼の前の相手をきちんと見つめることすらしていないような気がする。
どうでもいいコミュニケーションと真剣なコミュニケーションの総数が、多分この国の行く末を決定づける。現代のソクラテスはどこにいるのだろう?
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
・宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド