古本屋の殴り書き

書評と雑文

「私は在る」(I Am)その五/『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編

『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー
「私は在る(I Am)」の原典/『未来を改造する【ザ・パワー】のしくみ 想定の『超』法則』ネヴィル・ゴダード

 ・「私は在る」(I Am)その一
 ・「私は在る」(I Am)その二
 ・「私は在る」(I Am)その三
 ・「私は在る」(I Am)その四
 ・「私は在る」(I Am)その五

『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ

悟りとは
必読書リスト その五

ラメッシ●おわかりのように、「私は在る」は、常に【現在の瞬間】です。「私は在る」が、【現在の瞬間】なのです。「私は在る」においては、誰も「私は在る」と言う必要はありません。なぜなら、「私は存在しない」と言う人が誰もいないからです。わかりますか? だから、非個人的な【気づき】なのです。それは非個人的な【意識】です。……「私は在る」は、【それ自身】に気づいている【意識】です。……それでは、「私は在る」の【源泉】は何でしょうか? それは、【それ自身】に気づいて【いない】【意識】です。ですから、【それ自身】に気づいていない【意識】が、「私は在る」として、【それ自身】に気づくのです。(TM201)

【『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編:高木悠鼓〈たかき・ゆうこ〉訳(ナチュラルスピリット、2010年)以下同】

「【それ自身】に気づいている【意識】」をメタ意識と呼ぼう。メタは超という意味だが、高次元と考えてもらえばよい。気づきを意識するのは案外難しい。私はインナーボディとつながるエクササイズをやることで何とか手繰り寄せようとしている。

 また、「居る」と「在る」の違いにも留意する必要があるだろう。存在証明ではなく、ただ存在するのが「在る」だ。ただ、「在る」。だから何なの? と言われれば、「確かに在るよな?」としか答えようがない(笑)。

 実はちょっとした発見があった。それは、「人生の主役であることを放棄する」というアイディアである。これは中々いい。諸法無我の第一歩としては、かなりわかりやすいと思う。自分自身をエキストラと見なす。映画に登場する端役(はやく)と弁(わきま)えれば、感情の波も小さくなることだろう。そして、思考や感情をも映画を見るように凝視するのだ。

 昨今、ヴァーチャルリアリティ(VR)の進化は凄まじいものがあるが、本当は自分の人生こそ五感VRなのだ。何となくそんな気がする。

ラメッシ●神の意志への信仰が失われると――それさえ神の意志ではあるのですが――親切心と慈悲が現れます。そして、親切心と慈悲が失われると、すべきことと、すべきでないことという道徳がわき起こります。道徳が失われると、宗教的教義がやってきます。宗教は形骸化し、神への信仰の核ではなくなるので、宗教戦争が始まるというわけです。

 もしも、神が宇宙意識であるとすれば、人間から動物や植物に至る意識の一つひとつが神の断片なのかもしれない。

「道徳が失われると、宗教的教義がやってきます」――日本人の多くが無宗教であることは誇ってよい。心のどこかでお天道様と精霊とご先祖様を信じていれば十分だ。

「私は在る」の私はエゴではない。「在る」と気づいた時に諸法無我が立ち上がってくるのだ。