古本屋の殴り書き

書評と雑文

ヴェーダとグノーシス主義

『LUCY/ルーシー』リュック・ベッソン監督、脚本
西洋オカルトの源流はカバラとグノーシス思想にある

 ・ヴェーダグノーシス主義

 ヴェーダバラモン教ヒンドゥー教聖典)は知っていたのだが、グノーシスもまた「知識」を意味する言葉であることを初めて知った。

 このツイートを拝見して少しばかり調べてみたのだが中々興味深い。

歴史

 西洋で神秘主義の筆頭に挙げられるのが、古代ギリシャのエレウシスの秘儀である。類似のものとしてはオルペウス教、ピタゴラス教団などがある。やや時代を下り、ネオプラトニズム(新プラトン主義)、キリスト教神秘主義、更にはヘルメス思想なども、代表的な神秘主義である。

 ユダヤ教の代表的な神秘主義としてはカバラが、イスラーム圏の代表的な神秘主義としてはスーフィズムがある。

 インドにおいては、バラモン教ウパニシャッドにおけるアートマン思想などが、典型的な神秘主義であり、ここから派生したヒンドゥー教や、仏教における密教なども含む、いわゆるタントラ教全般も、その典型である。また、ヒンドゥー教においては、イスラームスーフィズムに影響を受けたバクティ信仰があげられる。なお、こうしたインドの神秘主義は、20世紀後半のニューエイジムーブメントに多大な影響を与えている。

 中国では道教の神仙思想及び老子荘子墨子などの道家思想、日本では密教及び修験道などが、代表的な神秘主義である。禅宗は、欧米人の一部から神秘主義だと解釈されているが、日本人の禅宗学者実践者は概して否定する。

神秘主義 - Wikipedia

 ウパニシャッド梵我一如こそが密教の始原であると私は考えている。

 神秘主義は戦後になると「オカルト」と呼ばれ始める。

もともと、英語におけるoccult(オカルト)という言葉は、
ラテン語において「隠す」「土をかけて埋める」「知られないようにする」といった意味を表す動詞であるocculere(オクレーレ)、
あるいは、その形容詞形にあたる「隠された」「秘密の」といった意味を表すoccultus(オクルトゥス)という単語に由来する言葉であり、
こうしたオカルトという言葉は、そうした言葉自体の本来の意味としては、「隠されたもの」や「秘密にされたもの」、
より具体的に言えば、
「人々の目に触れることがないように隠された秘密の知識」のことを意味する言葉であったと考えられることになります。

オカルトとは何か?ラテン語の語源とスコラ哲学との関係、啓蒙の光をもたらす秘密の知識としてのオカルトの肯定的な意味 | TANTANの雑学と哲学の小部屋

 ほら、密教だ(笑)。一方、カルトについては一般的な理解だと、

 学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。現在では、犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して使用される。

Wikipedia

 このような内容になるが、学術的には次のように説明される。

こうしたラテン語のcultio(耕すこと)という単語にその大本の語源を持つカルト(cult)という言葉は、
人間の心を耕し、場合によっては洗脳していくことによって、人々を熱狂的で反社会的な宗教活動へと導いていくことになるという
より危険性の高い思想活動や宗教活動のあり方のことを意味する表現となっていると考えられることになり、(後略)

オカルトとカルトの違いとは?ラテン語の語源に基づく両者の共通点と明確な意味の違い | TANTANの雑学と哲学の小部屋

 洗脳やマインドコントロールには明らかに密教的要素が濃厚にある。何らかの一体感を求める心性がなければ、そうたやすく洗脳されることはないだろう。社会に対する違和感や孤独感などが背景にありそうだ。

 マイスター・エックハルト(1260年頃-1328年4月30日以前)は日蓮とほぼ同時代の人物であるが、明らかに悟った形跡が窺える。キリスト教だとエティ・ヒレスムも悟った人物だと私は考えている。

 世俗化の基本想定、端的にいえば、近代化が進むと宗教的なものはおのずと解消していくという考え方は、たとえこの予測が歴史によって否定されようとも、そう簡単に社会学的思考からとりのぞくわけにはいかない。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教ウルリッヒ・ベック

 文明の進歩は脳のシナプス結合を変える。例えば文字を持たぬ民族は文字を持つ民族に必ず戦争で敗れている。近代の戦争は科学技術の度合いで勝負が決する。

 世俗化を避けられないのは古い伝統宗教である。そして世俗化が極端に進むと悟りを開く人々が登場する。彼らが世俗である社会に新風を吹かせる。このようにして時代とともに宗教性は常に刷新されてゆくのである。

 また、ベラーらは、現代アメリカ社会に於いて「自己を宇宙的原理に高めてしまうほど徹底して個人主義的な」宗教形態を「神秘主義」、あるいは「宗教的個人主義」と呼んだ。宗教的個人主義の先行形態は、19世紀の思想家であるエマーソン、ソロー、ホイットマンに見いだせるが、この宗教現象は20世紀の後半になってから主要な宗教形態として発達してきていると分析する。

【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之】

 宗教社会学の教条に縛られていると、彼らの動きをサブカルチャー的に捉えてしまう。むしろ既成宗教の枠組みに人間が収まっている方がおかしい。新しい思想は必ず古い思想を否定する。新しい山は古い大地を叩き割って出現するのである。

 宗教社会学が冴えない理由は、宗教という枠組みを鵜呑みにしているためだろう。私としては、これを「悟り社会学」に変えるべきだと思っている。教義に額(ぬか)づき盲従しているだけでは絶対に悟ることはできない。むしろ注目すべきは悟りである。悟ってしまえば教義は、河を渡ってしまった後の筏(いかだ)に過ぎないのだから。