古本屋の殴り書き

書評と雑文

蛇行しているのが川本来の姿/『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀

『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀

 ・蛇行しているのが川本来の姿

『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
『「筋肉」よりも「骨」を使え!』甲野善紀、松村卓

身体革命

 この講義の中でも、特に印象に残る話は、治水に関する話で、「川というのは、蛇行しているのが本来の姿であり、これを真直ぐにするのは誤りである」との説であった。
 すなわち、治水に対する近代の完璧主義から、蛇行による洪水をなくすため、川を真直ぐにし、頑丈なコンクリートの堤防を築くから、洪水の時は水の勢いが1ケ所に集中して非常に強くなり、惨事を招くことになる、というもので、昔は、巨大な土木工事力がなかったため、堤防に竹を植え、巨大漂流物を防ぎ、その上水勢を弱めて、その地域全体が冠水しても、家を壊し、押し流すことが少ないように、つまり自然と折り合う方法をとったという話であった。また、コンクリートで岸をかためれば、水辺の草が生えにくく、そのため川自身の水の浄化力もはるかに低下するとのことであった。
 もともと治山治水などといって、人間が自然を治める、といった言葉自体に反発のあった私は、おおいに共感を覚えたが、さてそうなると、いよいよ、行き場がなくなってしまった。

【『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀〈こうの・よしのり〉(壮神社、1987年/徳間文庫、2003年)】

 必読書にしてもいいのだが既に量が多すぎるため教科書本としておく。『武術の新・人間学 温故知新の身体論』を必読書にしているので自然に辿り着けるだろう。尚、肥田春充〈ひだ・はるみち〉などの登場人物についても自分で検索する程度の努力を払うのが当然と考えて、書評リンクは割愛した。

 甲野善紀の武術遍歴を記した内容で、日本の近代武道を見渡すことができる。特に現代はスポーツ武道(柔道、剣道、空手道など)は一定の人気があるが、剣術、柔術、弓術の技が途絶えつつあり、文化継承が行き詰まりを見せている。その意味で甲野の功績は大きく、古武術の名を広く認知させただけでも偉業といってよい。

 武術に関する問題のもう一つの側面は、日本人特有の心の狭さにも由来しているように思われる。戦国時代であれば秘技を隠す意味も理解できるが、一子相伝や免許皆伝に伴う閉ざされた伝承法が技を途絶えさせたともいえよう。

 上記テキストは大学時代の思い出である。我々が川の力を思い知らされるのは川が氾濫(はんらん)する時だ。荒れ狂う水は低い側の岸へ一気に押し流される。この時ばかりは山の手と下町という分け方を思い知ることになる。私が長く住んでいた江東区ゼロメートル地帯で、徳川時代に造成された水路が張り巡らされrている(徳川時代における墨東の運河開削:東京の川の歴史)。戦後間もない頃はよく増水し、学校からの帰りに舟が出たことも珍しくなかったと聞いた。

「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川高知県)にもダムがある(四万十川とダムを考える。 – 公益財団法人 四万十川財団)。ダムのない川は驚くほど少ない。

 私は蛇行した川を取り戻すべきだと考える。不自然な人工物は必ずいつの日か自然に葬られる。川底に堆積した土砂が何らかの形で氾濫を後押しするような気もする。人口減少のタイミングで川付近を住宅禁止地域に特定し、いつ氾濫しても被害がない町づくりを行えばいい。人間が少しばかりの不便を我慢すれば、自然は豊かさをもって応じてくれるはずだ。プランクトンや魚は生き生きと動き始め、海にも恩恵を与えるに違いない。

ありのままの川の姿/『川と人類の文明史』 ローレンス・C・スミス